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  • Ice Candy

    カフカ

    IceCandy、良いギターロックである。 突風のように蒼い轟音と疾走感。歌詞の断片のブライトな響き。 歪んだシングルコイル、ディレイ。気持ち良い。 ときは2000年代前半。 私たち日本生まれのゆとり第一世代は思春期に差し掛かり、ある遺伝子変革に遭遇したのだと思う。 ギターロックという本能の誕生である。 禁断の果実はBUMP OF CHICKENだったのだろうか。 あるい

  • 自意識不明

    nervous light of sunday

    カオティックという言葉がある。 その言葉の選ばれ方において、カオティックと、カオスは全く別物である。 カオスは字義通り混沌の意味。 ジャンルレスであったり、特にそれが無秩序な印象につながっていたりすると人は、カオスな曲だ、と表現する。 他方、カオティックはむしろ秩序だ。 具体的には、スクリーモ、あるいはスクリーモ系のエモ、ハードコア、メタルコア、ミクスチャーロックなどを主戦場とするバ

  • Good New Times

    Gotch

    バンドマンのソロを聴くのは好きだ。 その人が、バンドとソロ、公と私をどのように分断するのか。 その境目をどの地点に置くか。音なのか、歌詞なのか。仕事と趣味なのか。 一番好きなジャンルと、二番目に好きなジャンルなのか。 それまでのバンド作品では、プライベートな音楽を鳴らしていたのか。 そうではなかったのか。 ソロ作品をリリースするとたくさんのことが見えてくる。 『Good

  • デストピア

    GLAY

    GLAYの記憶は小学三年生の頃まで遡る。 クラスメイトの女の子が大ファンだった。 KinKiKidsではどっち派?みたいなノリで、GLAYでは誰派?といった会話がクラスでなされていたのは彼女の影響だった。音楽なんてかけらも興味なかった私だから、それでも誰一人名前を覚えられなかった。そして、その子はその年に転校してしまうことになる。 私にとってGLAYは一度そこで終わる。 次は大

  • ラバーソウル

    GRAND FAMILY ORCHESTRA

    太っちょのドラマーがいるバンドってもうそれだけで雰囲気良いよね。 太っちょのキャッチャーがいる野球部みたいなもんでさ。 ダンサンブルでアッパーな流行りのロックかと思いきや、スパイスのような哀愁が良い曲。 コーラスはどこかヨーロピアンでレトロ。あえて、ミクスチャーロックのタグをつけさせてもらった。 構成は意外とシンプルかつ挑戦的。『リンダリンダ』の如きロンド形式。冒頭のリフレイン

  • Paris / 結局地元 feat.Y’S

    KOHH

    両親や二つ下の弟、中学や高校時代を共にした友人たちが、私が離れたあともずっとあの町でくらし続けていることを思うと不思議な感慨がある。 KOHHを聴いて、弟に聴かせたいと思った。 都会に憧れて18で上京した私とちがって、弟は地元の仲間や地元の店を愛し、そこで暮らし続けている。彼ならきっと、「結局地元」と発するKOHHのパフォーマンスが、開き直りでも諦めでもなく、むしろラディカルで本質的なもの

  • STARTING NOW!

    水樹奈々

    アニソン界の覇権を握ったまま長いが、そのボーカルスタイルはアニメ声とは程遠い。当初から、声優ではなく本格的な歌手を志していた背景からして後続とは一線を画している。 『STARTING NOW!』はストイックでハードなロックサウンドがかっこいい。 水樹奈々の十八番といえるこのスタイル。無論、歌唱技術には余裕しか感じない。 ハードロック出自のヘヴィーな楽器隊とポップなボーカルの対比は、Jud

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  • ドラマ主題歌として書き下ろしの曲。
    線の細いフォーク歌手であった往年のイメージからすると、出だしから、重厚なストリングスとピアノの光沢にいささか面食らう。

    AKB48の指原莉乃が自身の誕生日にディナーショーを開催して話題になった。さすがの彼女も当日はドレスアップしており、日本歌謡史のスタンダードナンバーを中心に据えたセットリストはディナーショーに相応しい、フォーマルな仕上がりだったようだ。

    そう、ディナーショーとはそういうものなのだ。
    『夢見る人』のソングライティングと編曲には、さだまさしが長年のディナーショーで、身につけた"フォーマル"が顔を出していると感じた。

    MVでの上品なスーツ姿もそうだろう。
    40年ついてきた女性ファンも歳をとった。
    ファンたちを想いを汲み取り、壮年男性として目指すべき格好良さを探ったさだまさしが出した答えは、「やさしいスーツの日本のおじさん」を極めるところにあったのかもしれない。みすぼらしさすら強みに変えた青年の頃とは大きく変わったのだ。

    変わったと言えば、次の歌詞に注目したい。

    "愛するとは 夢見ること
    愛しき人

    愛するとは 信じること
    夢見る人"

    なんて無害で抽象的だろうか。
    その具体的すぎるディティールが衝撃を与えた『関白宣言』や、

    "あなたの愛した母さんの
    今夜の着物は浅黄色
    わずかの間に年老いて 寂しそうです"

    と、あえて心に切り込むことでハッとさせた『精霊流し』などの代表曲と比べると、ピントがずいぶんとぼんやりしている。

    それは、もしかしたら、愛はディティールで語れるものではない、という紆余曲折の末のひとつの悟りなのかもしれない。という読みはきっと好意的にすぎる。彼に限らず多くのアーティストにおいて、キャリアを積むに従って歌詞がシンプルになっていく傾向は見て取ることが出来る。しかし、さだまさしのそれは端から端への極端な転向であり、とても興味深いものがある。

    それでは逆に、変わっていないところはなんだろうか。

    中性的なハイトーンヴォイスがそれだろう。曲作りにおいても、それを全開に活かせるように構築しているのが見て取れる。そのイメージを崩さないことへのこだわりと意地を随所に感じられるのは、それが「やさしさ」という彼の歌のもう一つのキーワードを支えるものになっているからだ。

    中性的ハイトーンヴォイスといえば、草食系ロックバンド隆盛の21世紀において、多くのバンドが武器にしているものだ。その元祖がここにあるのだから、若手は、さだまさしという歳のとり方を見ておくと良いのかもしれない。失うもの、残ったもの、固執したもの、変わらなかったもの。表舞台でキャリアを積むというのは、一番良いときのままではいられないということだ。無常への意識はいつだって、素敵な音楽をやれているかどうか、を分かつ岐路において、良い緊張感に変わってくれるものだと思う。
    『ディナーショーとハイトーン』 を詳しく ≫
  • キャッチーで甘いメロディ。切ないディストーションギター。
    それをところどころで、破壊する楽曲構成がすごい。
    なんと途中で急にジャズになってしまう。
    そのジャズは、取ってつけたような感があるんだけど、取ってつけたような感こそが面白く思えるのはなぜだろう。
    結局どこがサビなのかわからなかった。
    舌っ足らずなユニゾンが醸し出す素人感。
    最後は咳き込んで終わる。

    『すなっちゃん・なっぽー』。Snatch an Apple。ペンパイナッポーアッポーペンを先取りしたようなタイトルだ。
    結論としては、耳に残る良い曲だ。なぜ良いのかは分からない。

    MVも尖っている。
    富士山?をバックにした広大な空き地に、ひぐらしの鳴き声がサンプリングされている。
    曲のイメージと見事にフィットしていない。
    とりあえず楽器を弾いてアーティストぶるアイドルへの皮肉ともとれる、これ見よがしなあてふりバンド演奏。
    ギャグではなくシュール。
    アイドルにありがちなほっこりした笑いに背を向ける。

    残念なことにBELLRING少女ハートは今年いっぱいで活動を休止する。
    朝倉みずほは卒業、柳沢あやのは卒業し、ソロ活動に移行するのだ。
    朝倉みずほがブログで次のように言っていた。

    "私はね、ベルハーは
    衣装と曲があればベルハーだど思ってます"

    アイドル当の本人としては、ひどく冷静な認識だ。
    これはある意味で正しいが、ある意味で間違っている。

    先述したようにBELLRING少女ハートの初見でまず印象づけられるのが、一筋縄ではいかない魅力を持つ楽曲だ。
    そして、「漆黒のセーラー服と異形の羽」という統一感のある衣装。
    着ている人間が変わってもグループが変わらないのは、過去のたくさんのメンバー離脱が物語っている。
    運営の田中紘治はすでに新メンバーの採用に動いているらしい。

    しかし、朝倉みずほには朝倉みずほの物語がある。
    "私はね、ベルハーは
    衣装と曲があればベルハーだど思ってます"
    こんな認識をさらっと持ててしまうメンバーを抱えていることはBELLRING少女ハートのアイデンティティだ。
    そういう意味で、衣装と曲のみならず、朝倉みずほはベルハーの強力な武器だった。


    『すなっちゃん・なっぽー』は実は歌詞も良い。

    "瞳に泳ぐ ふらちな季節

    くたびれた その横顔が
    ずるく Snatch an Apple
    奪い去るように手をつないでくれた
    放課後を追われるように
    胸騒ぎ 季節はずれの林檎ひとかじり"

    ふらちな季節は胸騒ぎではじまる。
    しかし、ドタバタと曲が展開した後の、静かなエンディングは次のように迎える。

    "奪い去るようにつないでくれた手で
    成熟へ追われたんだ
    明け方に 涙の味で林檎ひとかじり

    瞳に泳ぐ つめたい空"

    フリーダムな曲とシュールなMVで、堅牢に、歌詞の感傷は隠されている。
    成熟へ終われ、明け方に、涙、つめたい空。
    歌い出しとのコントラストを意識すれば、作詞家、空五倍子のセンスにも気づける。
    ちなみに空五倍子は田中紘治の別名らしい。紛らわしいな。
    『ジャズとアイドルは取ってつけろ』 を詳しく ≫
  • ウィリアム・ギブスン!

    近代的なダンスビートと、キッチュなメロディラインは、そのタイトルに相応しいSF的高揚感に満ちている。

    "ありふれた感情の墓場って
    全くこんな感じだって"

    クールに怪しく激走するイントロからのハスキーな歌い出しがむちゃくちゃ格好良い。
    ワンコーラス終わった後、自由に展開しはじめる主旋律も、曲の混沌を深め、いい具合にリスナーを迷わせる。
    工場?を舞台に撮影されたMVは、コンセプチュアルで美しい。
    金髪とパステルカラーのロリータ衣装は、もはやサブカルアイドルの意匠である。


    この世界観は、いわゆる、地下アイドルで無ければ出せない。
    やはり清楚であっては良くないし、黒髪であっては良くない。
    シンガーソングライターやバンドがやっても、エゴイスティックになってしまい、ポップにならない。

    エゴイスティックになってしまい、ポップにならない。
    エゴを廃し、ポップにする。そう、アイドルの役割はここにあるのだと思う。

    インタビュー系音楽雑誌をかすめる程度に読めば分かるが、この国の音楽は創りての人生のストーリーに創作物を引きつけすぎである。曰く、「このシングルは、もう後ろを振り返らないで音楽を続けてくぞ、といううちらの決意です。あえて前向きな歌詞をつくりました」「長いトンネルの中にいました。この曲ができることで次に進めるようになった気がします。大切な曲です」「過去の自分達を乗り越えるためにはこのアルバムをつくることが必要でした」


    私が聴きたいのは音楽であり、あなたの自伝を彩るBGMじゃないことに気づいて欲しい。

    アイドルには、その生臭さがないから良い。良い曲は良いし、楽しい曲は楽しい。作詞作曲者がどんな苦難を乗り越えてどんな人生を歩んでようが、アイドルに曲を提供した時点で、それはただの音に変わる。

    私たちはただの音が聴きたい。

    そういう意味で、アイドルの役割は、エゴを廃し、ポップにすることなのだ。
    アイドルに癒やされるという声をよく聞くが、考えてみればそれは必ずしも天使のようなルックスや、愛くるしいキャラクターに癒やされているのではないのだと思う。
    何より、エゴの付きまとう現実世界と自分自身に、時として、薬品のようにクリアに成分調整されたアイドルは染みるのだ。

    それはとても人工的な癒やしだ。電子ビート、そして『ニューロマンサー』が証明した、SFとの愛称の良さは、アイドルのそんな特質とも関係するのかもしれない。
    『アイドルとSF』 を詳しく ≫
  • バンドマンのソロを聴くのは好きだ。

    その人が、バンドとソロ、公と私をどのように分断するのか。
    その境目をどの地点に置くか。音なのか、歌詞なのか。仕事と趣味なのか。
    一番好きなジャンルと、二番目に好きなジャンルなのか。
    それまでのバンド作品では、プライベートな音楽を鳴らしていたのか。
    そうではなかったのか。
    ソロ作品をリリースするとたくさんのことが見えてくる。


    『Good New Times』は、一聴して良い曲だ。
    ロックのうるさい感じそのものが苦手な人に聴いてほしい。
    穏やかで、ちょっとオシャレで、耳に馴染む。休日にカフェにでも出かけたくなる。
    特に音楽好きでない人が音楽に求める素材でつくられた、生活に寄り添ってくれる音楽だ。

    気持ちよく張る声や軽快なリズムに、健康にソロ作品に取り組もうとしている姿勢がうかがえる。
    アジカンという足場を持った大人の余裕が小気味良い。
    そういうときに出てくる音楽は好きだ。
    聴き手にも余裕を与えてくれる。


    軽快なアコギのリズムは、アジカンのイメージとは大きくことなる。
    意外とベースがゴリゴリいっている他に、気づくことがひとつあるだろう。

    言葉だ。
    むき出しの言葉がたくさん詰め込まれている。
    この軽やかな曲によくこれだけの言葉を乗せた。
    いや、ここはちょっと疑ってかかりたい。
    この曲は、沢山の言葉をむき出しにすることを目的としてつくられているのではないか。



    後藤正文を語るときに、政治的であろうとする近年のキャラクターを無視することはできないだろう。
    指摘しておくべきなのは、その時代性だ。
    かつて、ロックミュージシャンが政治的であることは、普通のことであった。
    Bob DylanもSex PistolsもBeatlesも何かしらの政治的事件性を内包していた。
    簡単な話で、それは時代が持つ一体感だったのだ。
    小さな波が大きな波になるのに丁度良い情報の伝達速度が、20世紀のある時代にだけ存在していた。
    それがロック誕生から全盛への歴史と、キレイに連動していた。
    その意味では、ロックはメディアの音楽だと言える。

    話を戻そう。
    今のロックミュージシャンは政治的でないのが普通である。
    なぜなら、もはや波は大きくならず、音楽と政治には何のつながりも無いからである。
    それは悲しいことではない。音楽も政治も繋がってしまっていたあの時代こそがイレギュラーだったからだ。
    それでは後藤正文は、こんな時代に、まだ音楽と政治の結合力を信じている脳天気な人間なのか。
    その類の勘違いはとても多いが、もちろん、それは違う。
    後藤正文が政治的であることと、かつてのロックミュージシャンが政治的であったことは、意味が違う。



    『Good New Times』で執拗に「街」のモチーフが登場する。


    "僕らの魂を街頭に飛び出して書きつけてまわるんだぜ"

    "見慣れたビルの最上階から悲しみが滝のようだね"

    "少女が泣いていた 街は灰色のままさ
    若者は嘆いていた 街は灰色のままだ"

    "花を植えよう そこら中に
    種を蒔こうか 街中に
    いつかきっと目に見えるように変わるから"


    街は「悲しみが滝のよう」な場所であり「灰色」だった。
    それを「魂を書きつけ」「花を植え」「種を蒔く」ことで変える。
    街が変わる。それは随分と特殊なコンセプトではないか。都市開発じゃないんだから。


    仮説から入ろう。
    後藤正文の政治とは、世界を変えるための政治ではなく、政治を変えるための政治ではなく、自己を位置づけるための政治である。
    『Good New Times』では、街の中に自己を位置づけるという作業が行われている。
    僕ら、は実家に位置づけられているところからはじまる。


    "実家だけがシェルター"


    そして「魂を書きつけ」「花を植え」「種を蒔く」ことで自己を街に位置づけていく。
    これらの作業はマーキング行為そのものだ。
    マーキングとは居場所へのモチベーションである。

    実家で「ジャック・ケルアック」を読んで感動していることと、その感動をポケットに街に出ること。
    その違いが後藤正文の政治である。だから彼の活動は言葉を変えてメディアを変えて私たちを行動へと啓蒙する。
    それは、デモに行け、といった簡単な意味ではない。
    行動によって、街に出ることによって、個人の中で街は具体的なイメージをなす。
    そうして初めて、人は自己を位置づけられるようになる。
    これは特別な話ではない。だれだって行きていく上で自己の位置づけを必要とし、それは自己の外があって初めて行われる。

    その、あたり前だけど困難な試みを、政治的なことだと捉えること。そのために街が私たちには必要であること。それが後藤正文の立場だ。街の中に自己が位置づけられることは、自己にとってだけでなく街にとっても意味がある。物理的にも精神的にも、自己がアドインされることにより、街が変わるからだ。音楽は政治を変えないけど、街は政治を変えるかもしれない。音楽は街を変えないけど、音楽は自己を変える。
    『街が変わる、自己を位置づける』 を詳しく ≫

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  • さよならスカイライン

    ラッキーオールドサン

    圧倒的に聴きやすいのに圧倒的に独自性に満ちている。 あなたが古き良き温かい時代に生まれずに、絶望ばかりのこんな時代に生きていることを恨んでいるのなら、 あるいは、 失われた青春時代の自分から、今の自分はどうしてここまでかけ離れてしまったのかと嘆いているのなら、 あなたが聴くべき音楽は、 あなたにとっての懐メロではなく、 ラッキーオールドサンだ。 ラッキ

  • スポーティパーティ

    ウルフルズ

    つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。 このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。 リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。 なんてダーティーなんだろう。 単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。 そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。 そ

  • Connect

    田口 淳之介

    田口淳之介は精悍になった。 KAT-TUN全盛期の頃は、ワイルドなグループにおいて、ブラウンのロングヘアーがナチュラルにカールしている、甘い微笑みの優男という印象だった。 『Connect』のMVでダンスする田口淳之介と、公式ホームページのビジュアルイメージは統一されていて、ともにこれ以上さっぱりしようがないくらいにさっぱりした男になっている。 無駄なものが削ぎ落とされたかっこよ

  • Paris / 結局地元 feat.Y’S

    KOHH

    両親や二つ下の弟、中学や高校時代を共にした友人たちが、私が離れたあともずっとあの町でくらし続けていることを思うと不思議な感慨がある。 KOHHを聴いて、弟に聴かせたいと思った。 都会に憧れて18で上京した私とちがって、弟は地元の仲間や地元の店を愛し、そこで暮らし続けている。彼ならきっと、「結局地元」と発するKOHHのパフォーマンスが、開き直りでも諦めでもなく、むしろラディカルで本質的なもの

  • BLINKSTONEの真実を

    BIGMAMA

    金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。 無理もない。この人は持てる者だ。 まず普通に顔が格好良い。 そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。 BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は

  • しゅっとこどっこい

    バンドじゃないもん!

    鈴木美早子は侮れない。 明るく愛嬌があって、媚びないけど隙があって壁がない。 ロックバンドの紅一点として、バンドを壊さないままメンバーをモチベートし躍進させるために生まれてきたかのような女性だと思う。 その意味ではみさこは本質的にアイドルではないかもしれない。 アイドルは一般的に、媚びるけど、隙がなくて、壁があるからだ。 そのみさこがバンドじゃないもん!をはじめたとき、私はまた彼

  • Fall

    told

    「最近の若手には骨のあるやるがいないんです」 「あんたは春になるといつもそう言うな。新入りってのはな、朝顔みたいなものなんだよ」 「アサガオ?」 「ああ。アサガオだ。芽が出るまではとにかく水をやることだけ考えていれば良い。支柱をたててこっちが望む方向にツルを巻いてもらうのはそのあとの話だ」 「なるほど。おやじさんの言うことはやはり含蓄が違う」 「お代はまけないよ」 「わかってますって。

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  • 圧倒的に聴きやすいのに圧倒的に独自性に満ちている。


    あなたが古き良き温かい時代に生まれずに、絶望ばかりのこんな時代に生きていることを恨んでいるのなら、

    あるいは、

    失われた青春時代の自分から、今の自分はどうしてここまでかけ離れてしまったのかと嘆いているのなら、


    あなたが聴くべき音楽は、
    あなたにとっての懐メロではなく、
    ラッキーオールドサンだ。


    ラッキーオールドサンを聴けば、
    この世のすべての過去は、
    いま目の前のこの現実こそが、
    セピア色で、
    温かく、
    愛おしさに溢れたレトロな世界へと、
    断続的に変わっていったものだったのだと、
    知ることができる。



    ある意味、このバンドは非常にテクニカルだと思っている。
    月島雫が大人になったような、唱歌のようなナナの歌声も、どこまでもクリーンにこだわり抜かれた篠原良彰の美学的なギターも、カーステレオ、木綿のハンカチーフ、十三回忌の母、といった言葉選びも、サングラス、ホテル・カリフォルニア、追憶のハイウェイ61、A LONG VACATION、カッタウェイの無いエレキギターといったMVの小道具も、ある雰囲気を表現するための意匠として申し分なさすぎて怖いくらいだ。ここまでアジャストされた意匠を取り揃えたセンスに、ラッキーオールドサンの、演出家としての、高等なテクニックを感じざるを得ない。


    ところで、ラッキーオールドサンは、優しいだけの音楽だろうか。癒されるだけの音楽だろうか。現状をただ肯定するだけの音楽だろうか。前向きに生活へと向き合うためのサプリメントのような音楽だろうか。私は、それは違うと思っている。

    ラッキーオールドサンは確かに、三丁目の夕日的な直線的な癒やしのノスタルジーとして消費されてしまう可能性を常にはらんでいる。また、批判的に捉えたい人は、そのように誤解すれば、たやすく批判できてしまう。その種のガードの弱さが、ラッキーオールドサンにはある。上述の無数のレガシーな意匠たちこそ、批判されるとき、槍玉に挙げられてしまうだろう。

    しかし、その意匠たちはあくまでテクニカルな産物である。私が思うに、ラッキーオールドサンの本質は別のところにある。彼らの本質は、ライブハウスではなく、カフェや飲食店と併設されたイベントスペースでのパフォーマンスを頻繁に行っているところに隠れている。

    どういうことか。
    次のことを再確認したい。
    ライブハウスは音楽が必要とされている空間ではないということだ。

    例えば、飲食店は音楽を必要とする。なぜなら私たちは気分良く食事をしたいし、店主は私たちが気分良く食事することを望んでいるからだ。バーは音楽を必要とする。私たちは気分良くお酒を楽しみたいし、マスターは私たちがバーでお酒を片手に最高のひとときを過ごすことを望んでいるからだ。大半の飲食店はBGMを流す。そして、特別な居心地を提供したい飲食店は、音楽家を招き、生演奏を披露する。

    立ち戻ろう。ライブハウスは、音楽が必要でないのに、わざわざ音楽を鳴らしにいく場所である。コンサートの日になると演奏家と聴衆が一斉にからっぽのライブハウスに集結する。そこに初めから音楽を待っている人はいない。


    結論に行こう。要するに、ラッキーオールドサンは、音楽が必要とされている場所に、音楽を届けることを生業としている。必要としていない人に自分の音楽をなんとか聴いてもらい、ライブハウスに来てもらうのではなく、必要としている人のもとにフワリと音楽を置きにいく。それは音楽の慣性に倣った音楽との関わり方である。
    二人は意識的に選んでいるわけではないかもしれない。しかし、この差異はとても重要なことだ。
    音楽の慣性に倣うことで自ずと、つくる曲も、演奏も変わってくる。ラッキーオールドサンのオーガニックな音楽性は、音楽の慣性への、身体的、精神的な適応がもたらしたものである。

    音楽の慣性との付き合い方については、また別の場所で掘り下げる価値があると思っている。ラッキーオールドサンの活動スタイルは、その際の問題提起として起票するに値する批評的なものだ。

    最後に、
    MVでスカイラインを運転している男性がいい味を出している。
    この曲をシングルカットするなら、CDジャケットはタバコに火をつける彼の横顔で決まりではないだろうか。
    『あなたにとっての懐メロではなく』 を詳しく ≫
  • つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。
    このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。

    リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。
    なんてダーティーなんだろう。
    単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。
    そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。
    その両方に火炎放射を浴びせて焚き付けるようにのたうち回るギター。

    バックトラックだけを聴けば、ビジュアルイメージさえも、ウルフルズのパブリックイメージとは違う、ダーティーで硬派なルックスが浮かび上がってくるはずだ。

    バンドにとって、ボーカルが花だとすれば、楽器隊はさしずめ花瓶である。仮に花を取り外して、花瓶としての美しさ、かっこよさ、丈夫さを評価してみれば、世のバンド界隈には、いまと全く違った素敵な世界が広がっているかもしれない。ウルフルケイスケ、ジョン・B、サンコンJr.がつくる模様のないタイトな花瓶は、そんな可能性を妄想させてくれる。

    さて、そんな最高の花瓶に生けられているにも関わらず、すべてを持っていってしまうトータス松本には何があるのか。

    ひとつ提案したいのは、ボーカリスト俳優説だ。
    古今東西、ロックバンドのボーカリストが、一定のキャリアを積んだ上で俳優業を掛け持つ例が後を絶たない。トータス松本も然り。無論、楽器隊より人気が出やすいこと、ソングライターであれば俳優業にも通じるクリエイティビティを潜在する場合が多いことなどの条件もあるが、そもそもボーカルとは喋るパフォーマーであることを忘れてはならない。つまるところ、技術的にボーカルと俳優は近似しているのだ。

    トータス松本は、喋るパフォーマーとしての俳優力が高い。
    演劇の世界では、小道具大道具を用意せず、あえて喋りのみで情景描写や世界観を表現するスタイルが一般的に存在する。それは演技の持つ可能性を最大限に楽しめる、まさに演劇の真骨頂だ。その空間では、言葉とアクションだけで場のすべてを持っていく使命が俳優に課されている。

    ある種のボーカリストの持つ驚異的な空間掌握力はその使命の達成に近い。
    声が良い。顔が派手。しなやかな身体。個別の要素を挙げればいくらでも褒められる。しかし、俳優が観客に情景を見せるために注ぎ込まれるエネルギーは、決して個別の要素の能力値では測れない。
    文字通り前身をフルに駆使する。セリフのピッチは勿論のこと、瞬きひとつ繊細に研ぎ澄まされた、総合芸術だ。

    ボーカリストは総合芸術である。そしてトータス松本は歌のうまい花ではなく、最高の花瓶に刺さった最高の俳優だ。"スポーティパーティ"のリフレインと対になるBメロの、アドリブのように不定形で切迫したボーカルワークを聴けばその怪演に胸を打たれずにはいられない。
    『最高の花瓶とボーカリスト俳優説』 を詳しく ≫
  • 田口淳之介は精悍になった。

    KAT-TUN全盛期の頃は、ワイルドなグループにおいて、ブラウンのロングヘアーがナチュラルにカールしている、甘い微笑みの優男という印象だった。

    『Connect』のMVでダンスする田口淳之介と、公式ホームページのビジュアルイメージは統一されていて、ともにこれ以上さっぱりしようがないくらいにさっぱりした男になっている。

    無駄なものが削ぎ落とされたかっこよさ。それはとてもシンプルでサラッとしたものであるはずなのに、ジャニーズという枠で考えると逆にユニークだと感じてしまうのが不思議だ。

    KAT-TUNはアンチ・ジャニーズのグループだ。6人中3人がグループを脱退し、事務所を退社していることからそれは明らかである。事務所がそれを失敗と捉えているか、逆に戦略的に有効だと捉えているかはわからない。いずれにせよ、そこにアンチ・ジャニーズというひとつの価値観が存在していることは確からしい。

    さて、脱退した赤西仁と田中聖を見てみよう。二人に共通しているのはその反骨精神以外にもう一つある。それは海外志向だ。

    赤西は、KAT-TUN在籍時から語学留学を試みており、それは全米デビュー、全米主要都市ツアーとして結実している。
    田中は、INKTを結成した。英語詞や英語タイトルが積極的に使われており、活動初期はブラジルでのフェスに大々的に出演している。サウンドからも感じ取れるが、海外展開に成功しているONE OK ROCKの立ち位置をひとつのランドマークとしていると読んで、間違ってはいないだろう。

    それでは田口淳之介に海外志向はあるのだろうか。海外デビューの予定はリリースされていないが、実は公式ホームページのプロフィールにはすでに英訳が併記されている。そして『Connect』のスローでエレクトロで隙間を意識した、コンテンポラリーなダンスサウンドを聴いてみれば、海外のトレンドを強く意識していることは一目瞭然だ。音だけを聴く限り、新しいキャリアを築いた三名の中で、Jポップリスナーへの配慮が最も足りていないのが、実は田口淳之介である。もちろんこれは良い意味で、だ。

    赤西の『TEST DRIVE featuring JASON DERULO』では、キャッチーなメロディと共に、日本人に向けた海外のかっこよさが存分に描かれていた。MVの最後のシーンが象徴的だ。赤西は左ハンドルのオープンカーに乗り、アメリカのハイウェイを大都市に向かってドライブする。アメリカに進出した赤西仁のカッコよさ。日本人の私たちがそれを意識せざるを得ないように、『TEST DRIVE』のMVは制作されているのだ。

    他方、田口淳之介『Connect』のMVは、スケボー仲間とのコミュニティというモチーフが、ビルの屋上や街中の公園と共に全面に押し出されている。ローカルを大切にするというそのスタンスは、逆説的に、アメリカのストリートの音楽により近接できている。赤西と田口にはこのような興味深い対称性があったようだ。

    その対称性の考察は今後の課題ということにしよう。
    ひとまずは、アンチ・ジャニーズ三人衆の共通項は海外志向である、と結論付けることができる。

    そこからさらに見方を反転させ、日本に残された側のことを考えてみたい。
    国内志向文化としてのジャニーズ、という発想だ。
    国内志向と海外志向、言い換えれば、日本が一番と思う人と日本は遅れていると思う人。昨今、両者の溝はより深くなり、両者の主張はより先鋭化されている気がする。その水面下での分裂の非常に象徴的な表面化として、新世代のアイドルを代表し日本の芸能シーンを支えていくはずだったKAT-TUNの分裂劇を捉えると、一連の事象は一段と興味深い。少女漫画の王子様のようだった田口が徐々にシンプルに洗練されていった事実すらも、見落としてはいけない気がしてくる。

    以上を踏まえて、今後のKAT-TUN、赤西、田中、田口の動向は注目に値する。
    だれがどこで成功するのか。溝は深まるのか。あるいは、もしかしたら、再結成はあるのか。
    どのような結果になろうと、KAT-TUNはそのときまた、未来の日本人の生き方を反映してくれるかもしれない。
    『KAT-TUNアフターストーリー』 を詳しく ≫
  • 両親や二つ下の弟、中学や高校時代を共にした友人たちが、私が離れたあともずっとあの町でくらし続けていることを思うと不思議な感慨がある。

    KOHHを聴いて、弟に聴かせたいと思った。
    都会に憧れて18で上京した私とちがって、弟は地元の仲間や地元の店を愛し、そこで暮らし続けている。彼ならきっと、「結局地元」と発するKOHHのパフォーマンスが、開き直りでも諦めでもなく、むしろラディカルで本質的なものだと読み取れるだろう。

    私も弟も、ラディカルな考え方が好きだ。
    それは二人ともロックから学んだものだと思う。
    とはいえ、二人の人生は全く異なる道を歩んでいる。


    "海外とか行ってみても楽しいのは結局地元"


    とKOHHは言う。私は東京に出ただけでなく、「海外とか行ってみる」ことがとても好きだ。最も好きなことのひとつと言って良い。弟はそんなことよりも、仲間と田舎の廃屋を貸し切ってクラブイベントを開催するようなやつだ。そこは覇気のない田舎町にも関わらず、面白いことの好きな享楽的な若者たちはどこからともなく集まってくるようだ。深く太い地元のアンダーグラウンドネットワークは、地上の世界で生活していた高校生の私には全く見えないものだった。

    KOHHは、私たち兄弟のハイブリッドと言える。そしてその両方の価値観を、客観的に見つめる頭の良さを持っている。


    "オラオラ系のあいつがやってるのは黒い仕事"


    こういった身内の相対化が適宜リリックに挟まれる。だからKOHHのMCには説得力がある。客観化し相対化してもなお、発信することを選んだメッセージだとわかるからだ。そしてその選択には歴とした同時代性があると私は感じる。同時代性という言葉を言い換えれば、今の時代に即しており現状への批評的な観点を持っている、ということだ。つまりラディカルなのである。地元を離れた私と、地元に残った弟、双方の人生に批評的に突き刺さる普遍性をKOHHのMCは持っている。

    KOHHはあらゆる面でラディカルだ。
    例えば、公式ホームページに着目したい。
    KOHHは国内用と海外用、二つの公式ホームページを持っている。国内用のドメインは『やばいっす.com』。海外用には別ドメインを切っている。『kohh.tokyo』だ。世界的には.comの方が普遍的であるのも関わらず、あえて.tokyoのドメインを利用する戦略がとても上手い。内容においても、ただ英訳するだけでなく、見せ方、構成を完全に変えている。

    尖っているもの、アナーキーなものに触れたときに湧いてくる勇気。
    本当に進むべき方向を向くことができれば、そこは全くもって希望に満ちているのだという啓発。人類史が続く限り、継承されてきた啓発。それはもはや啓発ではなく、生物学的な習性と言っても良いかもしれない。しかし私たちは、それを必ず忘れてしまう習性も同時にそなえている。だからいつの時代もだれかが人々にそれを思い出させてきた。その煽動者をこそ、私たちはアーティストと呼ぶべきだ。現代においてその役目はKOHHと、もしかしたらヒップホップが担っているのかもしれない。
    『弟に聴かせたいと思った』 を詳しく ≫
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  • RT @gotch_akg: 仙台空港着いたけど、これから乗るタクシーがロックスターみたいにステージ脇横付けされるとのこと。 by @ZeroBeat_BOT

  • RT @OR_HIROKI: 県総で鯉にエサをあげてたら、ミチシルベがかかったから、有線かなぁと思ったら、次の曲がラヴパで、その次が花だったので、誰かのプレイリストですね。嬉し! by @ZeroBeat_BOT

  • RT @SKCmisako: あと改めて『完ペキ主義なセカイにふかんぜんな音楽を♥』がとんでもないアルバムだということを再確認した。 ライブでもこのアイドルらしからぬほどに音楽音楽してる良曲たちに、あったけー魂をこめて届ける!!!!!! (.´▽` )つ♨️ by @ZeroBeat_BOT

  • RT @soge_yama: 阿部さんのカラオケのレパートリーが、高校の時と同じ by @ZeroBeat_BOT

  • RT @mizunoyoshiki: だから去年の夏、25000人の前で「からくり」を演奏したとき、17年前の自分に戻る瞬間がなんどもあって、目の前の光景と、ありありと蘇ってくる記憶との、幸福なギャップに、ただただ驚いたりして、感情がゆさぶられたんです。 by @ZeroBeat_BOT

  • RT @mizunoyoshiki: 「からくり」はインディー盤の「七色こんにゃく」に収録されたものをオリジナルに感じるひとが多いと思うんですけど、やはり自分としては高校生のときに駅前で3人で歌ってたときの「からくり」がオリジナルなんですよね。それは僕らの記憶のなかにしかない。… by @ZeroBeat_BOT