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  • 生きていたんだよな

    あいみょん

    あいみょんは、影のある少年のような声をしている。あいみょんの最大の個性は、ハイパフォーマンスなこの声にある。尖った強いエゴや、その奥で守られている心の震えを、言葉を乗せずとも伝えてしまう蒼い声だ。 アコースティックギターのストロークよりもスピーディーに畳み掛けるメロディは、声の次に独特だ。野狐禅の竹原ピストルに似ていると指摘されているが正しいと思う。フォークの流儀だ。声質も相まってすこぶる気

  • スポーティパーティ

    ウルフルズ

    つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。 このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。 リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。 なんてダーティーなんだろう。 単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。 そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。 そ

  • めぐり逢えたら

    おとぎ話

    古い家具のようなギターの音色でドリーミーなアルペジオを組み立てる。 最後まで厚くならない音像に、盛り上がりに欠ける空虚なメロディが滑っていく。 独特な音楽は多々あれど、その独特さのベクトルにおいて有識者が認知できないような角度で『めぐり逢えたら』を繰り出すおとぎ話は、損極まりない。 新しいジャンルとの融合や、時代のアーキテクチャの有効活用は本当のところオリジナルでもなんでもない。進んでいる時

  • ソレデモシタイ

    平井 堅

    平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。 平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へ

  • ニューロマンサー

    おやすみホログラム

    ウィリアム・ギブスン! 近代的なダンスビートと、キッチュなメロディラインは、そのタイトルに相応しいSF的高揚感に満ちている。 "ありふれた感情の墓場って 全くこんな感じだって" クールに怪しく激走するイントロからのハスキーな歌い出しがむちゃくちゃ格好良い。 ワンコーラス終わった後、自由に展開しはじめる主旋律も、曲の混沌を深め、いい具合にリスナーを迷わせる。 工場?を舞台に撮

  • ハイエース

    フラワーカンパニーズ

    フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、 "いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)" ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。 私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった

  • 最&高

    きゃりーぱみゅぱみゅ

    楽しいながらも落ち着きのある普通に良い曲。サビは「さぁいえんこぅ!」の語感一発で、こてこてになりがちなジャンルの中で逆に整然としたものを感じる。青文字系という文脈抜きにきゃりーぱみゅぱみゅは語れないが、この曲では"泣かない負けないうろたえない 宴会じみてる毎日に"という歌詞にその世界観がギュウギュウに詰まっている。 ゴールを設定しそこに積み上げる毎日を丁寧に暮らすのではなく、宴会じみてる毎日

RANDOM REVIEWランダムレビューから音楽をみつける

  • ORANGE RANGEは若い。
    2017年現在メンバーはまだ30代前半。
    いいなあ、楽しそうだなあ。
    Twitterのノリが中学生だもん。

    HIROKIのアイコンはチワワだ。
    自己紹介の文章は「日々、透明人間になれるよう猛特訓の日々。」

    NAOTOの位置情報は「naotohiroyamanaotohiroyama」で、自己紹介は「naotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyama」。

    RYOは四年更新が止まっているが、自己紹介が「ひげが生えてます。。」。
    面白さの競い方が完全に男子中学生。

    音楽もめっちゃ楽しそう。
    『SUSHI食べたい feat. ソイソース』は狙い通り話題を呼んでいる。
    基本楽しい人達だから、ユーモアも根がハッピーなのだと思う。
    最近の若手バンドでもユーモラスな歌詞が売りとするバンドはいる。彼らがオレンジレンジには及ばないことを私はこの曲で再認識した。


    ユーモアにもいろいろある。その中でもネット由来の卑屈なコメディが今の日本では幅を利かせている。それは2chで生まれTwitterでネット全土に広まった。
    若手バンドのユーモアはソレなのだ。所詮は文化系。

    オレンジレンジは違う。こいつらは沖縄からきた本物のパリピだ。彼らはガチで人生をenjoyしており日々仲間と笑って仲間を笑わせて生きている。


    "サーモン大好きオンナ
    唐揚げくうなよオトコ"


    筋金入りの本物のユーモアだ。
    沖縄は音楽の街だ。地元を愛し、地元で生活しながら全国区の人気を誇るアーティストがたくさんいる。オレンジレンジもそのひとつだ。

    オレンジレンジを考えるとき、仲間と遊ぶ楽しさというプリミティブな天国に、一番近い場所としての沖縄を考える。その場所の力が沖縄のインディーシーンをユニークに醸成しているように思えてならない。とにかく彼らは楽しそうにみえる。自分たちの遊び場で自分たちの遊びができているようにみえる。時々、何かの化学反応で広い世界と彼らの音楽が交信する。ヒットする。

    それは関東に住む私にとって、ありがちなユートピア幻想なのだろうか。
    しかし、そんな簡単なことすらできないから私たちはインターネットに時間を割いてしまうのであり、そこでの笑いの作法なんてのを身につけてしまう。

    バンドの本質は、仲間と遊ぶことだ。
    仲間と遊ぶことに真正面から向き合ってきた人たちと街の、音楽が強靭なのは、理にかなっている。


    歌詞に白けない要因は他にもある。サウンドだ。
    意外と音数が少ないことに注目したい。
    スタッカートを活かした単音のシンセリフや捻ったスネアが控えめに引っ張る。ワサビのようだ。
    スムーズな展開もコードに頼らずひっそりと繋ぐ。
    バンドはコミックソングをつくるとき、サウンド面においてはヤケクソにテンコ盛りにしがちだ。ここには一日の長がくっきりと出る。
    オレンジレンジが冷静なサウンドメイクで高い完成度を目指せたのも、やりたいことをやってきた実績と自信があるからだ。


    ブレイクしシーンの頂点に立った頃、彼らはまだハタチに毛が生えた程度の年齢だったわけだ。ヤンチャな感じが敵を作ったが、いまはみんないい男になった。仲間と遊ぶことに真正面から向き合ってきた男はいい男になる。いい男のいい音楽を育てたのは沖縄のその街なのだと思う。
    『パリピのユーモアと沖縄のその街』 を詳しく ≫
  • 平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。

    平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へのユニークなアプローチだろう。

    『ソレデモシタイ』は、そのタイトルを見た瞬間からして、彼のソッチ方面のアレが来たな!と悟ったものだ。

    Jポップにおいて、性の隠喩や直喩はもはや珍しいものではない。それは表現の自由という意味では喜ばしい状況だが、一方で、性について描かれてしまったときの違和感や、背徳感、ドキドキ感に全くアプローチできていない、カタチだけの過激な歌詞も多く存在する。

    その有象無象置き去りにするようにして、平井堅のエロティックは、むしろキャリアを重ねるごとに尖っていっているように私は感じる。丸くなったなと思った頃に、読めないことを仕掛けてくる。十年強、見るともなしに邦楽チャートに張り付いていた私にとって、平井堅はそういう男だ。

    平井堅のエロティックが凡百のソレとは異なる理由は、関心の矛先が微妙に違うからである。『ソレデモシタイ』の歌詞を見てみよう。


    "あなたは決して使わないのよ アタシの好きなボディーソープを
    シャワーでさらっと流すだけなの アタシを持ち帰らない為に"


    "無味無臭で ただいまって 正しい愛を抱きしめるのね
    減らないのよ ボディーソープ アタシの心が減ってくだけ"


    これは不倫の歌だ。語り手の"アタシ"の家に男は来ている。男には家庭があり、不倫相手の"アタシ"よりも家庭を大切にする。なぜなら、ボディーソープを使って違う匂いを身にまとうことすら注意深く避けるからだ。男は"どっかで冷やかで自信家な男"であり、冷静にリスクを回避する。冷静であるということは、"アタシ"に溺れていないということだ。

    平井堅楽曲のエロスは、過激さの意匠でも、欲望と正対する文学でもない。雰囲気である。

    『ソレデモシタイ』においても、むんむんと立ち上るリアルかつフィクショナルな雰囲気こそが、映画のワンシーンのようにリスナーにまとわりつき、ジェントルでスマートな楽曲にざらついた手触りを導入している。逆に言えば、そこには雰囲気しかない。性のよろこびでもかなしみでも開放でも抑圧でも現実でも理想でもなく、雰囲気。性の存在する雰囲気。これが平井堅の圧倒的な個性であり、稀有な魅力だ。

    それが雰囲気だからこそ、そこには多様な引き出しがあり、気付かされることが多い。性の雰囲気は無限だし、男女のシチュエーションは無限だからだ。安心して聴ける面もある。雰囲気とは性、それ自体ではないからだ。


    それでは、そのユニークな歌詞世界はどこからくるのか。
    この問に本気で踏み込むなら、彼自身のセクシュアリティを研究しようとしなければならないだろう。しかしそれは無理な話だ。今回は、作詞家としての平井堅は、彼の内面から誕生したものではなく、彼の音楽家としての資質とボーカリストとしての資質が先立つカタチで、後天的に導かれたものだという説を唱えたい。

    どういうことか。
    作曲家、アイデアマンとしての平井堅は比較的スマートに闘う。彼にとって、狙ったダサさはOKでも、必死なダサさはNGだ。遊び心を差し引いても、バックトラックの完成度は常に高水準を維持している。いじわるに言えば、美しいだけの音楽をつくるのはお手の物だというわけだ。しかし、アーティスト平井堅はそれだけじゃダメだということを知っていた。出来杉君は主人公になれない。だから何らかの方法で隙を見せ、人間臭さを出す必要があった。完成した楽曲の調和を崩す役割を担わせるために、その独特な歌詞世界を平井堅は生み出した。それは戦略であり、バランスだった。以上仮説その一。

    エロティックなアプローチの中でも、とりわけ雰囲気、シチュエーションを重視するその嗜好は、自分自身の声に触発され続けることで形成されたものなのではないかと考えてみたい。平井堅の声には色気がある。いわゆる美声というやつだ。第二次性徴期において、身体の変化とアイデンティティの形成が不可分であるように、自分の身体や自分の声から、平井堅が表現としてのエロスを感じ取ったとしたら。もちろん単純化するつもりはない。しかしその独特な性へのアプローチにバックグラウンドを見出すとしたら、私は彼自身の声が先だったのだと考えてみたいのだ。もちろん、声が持つ色気と自己イメージには当初はギャップがあったかもしれない。とはいえ、アーティストにとってはその不調和すらも作家性へと昇華する対象となる。女性視点の作詞という武器も、そのひとつの帰結かもしれない。
    そして表現を重ねる過程で、性という武器をあらためて内面化し、意識的に使いこなしていく。さらにはその武器は本人が思った以上に探求のしがいがあり、需要のあるものであった。以上が仮説その二だ。
    念を入れる必要はないかもしれないが、これはあくまで妄想である。


    最後に、作曲はDivine Brown, Aileen De La Cruz, Adam Royceというクレジットになっている。本人の手がけた曲ではなく、コンペで選ばれたという。これがまた良い。

    PV?
    インドの話はいまさらするまでもないだろう。
    『性へのユニークなアプローチの源泉』 を詳しく ≫
  • カオティックという言葉がある。
    その言葉の選ばれ方において、カオティックと、カオスは全く別物である。

    カオスは字義通り混沌の意味。
    ジャンルレスであったり、特にそれが無秩序な印象につながっていたりすると人は、カオスな曲だ、と表現する。
    他方、カオティックはむしろ秩序だ。
    具体的には、スクリーモ、あるいはスクリーモ系のエモ、ハードコア、メタルコア、ミクスチャーロックなどを主戦場とするバンド達の、様式的で完成度高くセットアップされた変拍子や展開、音のキャラクターを褒める際に使われる。

    そう。
    本格ミステリは様式美だ。と言った小説家がいたが、同じようにカオティックも様式美である。
    スクリームがあり、ノイジーなパートがあり、メロウなパートがある。
    自己の内面に向き合った退廃的、破滅的な世界観。そして変拍子に転調、と音楽理論や演奏力をフルに発揮する。


    『自意識不明』も上記の様式美を満たした、実力派のカオティックソングだ。
    ツインペダルとメロディアスかつノイジーなリフの怒涛のスピード感。
    歌詞に魂をこめた切迫感のあるパンキッシュなスクリーム。
    ギターがクリーントーンになるメロウなパートも美しい。
    こんなときこそドラムは突っ張って捻ったパターンを叩く。
    そして歌詞。言葉でメッセージを表現することへの強い拘り。
    カオティックであるということは実力派ということなのだ。
    完全無欠であること。それは負の意味でのカオスの対極にある。


    nervous light of sundayほど本格的ではないが、同じようにカオティックなハードコアバンドの七弦ギタリストを努めていた友人がいた。
    彼は東京の高校を中退し、たくさんのバイトを経験しながらバンドでのデビューを目指していた。
    私のように学校では良い子で通ってた人種からすると、悪い友達も多そうな彼は、いわゆる不良っぽいところがあったが、音楽に対してストイックに追求するその様子には、姿勢の違いをひしひしと感じた。
    単にがむしゃらに夢を追うのではなく、彼には技術、知識への貪欲な向上心があり、事実それを身につけていた。
    ハードコアだけでなく、本当に多様なジャンルの音楽を聴き、映画やアニメにも詳しく、ピアノも弾けたようだ。

    彼には、とび職から転身したと言われるバンド『FACT』のキャリアにグッとくるような一面があった。それこそが彼の本質だと思う。
    しかし、持ち前のヤンキー気質で音楽のインテリジェンスに迫るその生き様には、同じ音楽好きとして考えさせられるものがあった。

    nervous light of sundayは大田区の大森出身のようだ。
    件の友人も東京だった。

    実は、彼がその後どうなったのかはわからない。
    『自意識不明』のスピーディーで艶やかなギターリフや、練られた楽曲構成に唸るとき、私は彼のことを思い出す。
    そしてこのシーンの層の厚さに、新たなヒーローの誕生を想像する。
    『カオティックとインテリジェンス』 を詳しく ≫
  • サビの出だしが、「最高なしあわせ」ではじまる。その譜割りがとても良い。
    「し」と「あ」が繋がって発音される様がとても洋楽的である。

    奇抜一歩手前まで攻めるファッションからして、そんじゃそこらの可愛いだけの女とは違う、というパッションが伝わってくるだけあって、『最高のしあわせ』のようなバラードであっても、お茶の間のテレビには似合わさない大人っぽいアレンジである。

    この世界には、加藤ミリヤを熱狂的に支持する女性たちがいる。
    交友関係が狭いおかげで、彼女たちと友人になる機会を未だ得ていない私だが、かろうじて、旅先でひとり、加藤ミリヤのファンである女性と会ったことがある。

    まず印象的だったのは、彼女が加藤ミリヤのことを「ミリヤ」と呼んでいたことだ。
    まるでそれは友達を呼ぶようだった。

    しかし、後々、加藤ミリヤの公式ホームページを見て、その理解がもう一歩捗ることとなる。
    公式ホームページの記述は次のようなものだった。


    "「最高なしあわせ」Music Videoは「幸せ」な瞬間を切りとっていて
    一面の生花の前で歌うミリヤが印象的に出演しており、とても色彩豊かな映像に仕上がっています。"


    そう、自身のホームページでも加藤ミリヤはファーストネームで語られていた。
    それは、ファンにとって加藤ミリヤがどんな存在であるべきか、という加藤ミリヤ自身のプレゼンテーションなのだと思う。

    ファンたちにとって、「ミリヤ」はそういう意味で友達なのだと思う。


    しかし決してただそれだけはない。
    なぜなら、周知の通り「ミリヤ」は憧れの対象であり、可愛くて、歌が上手で、ダンスが上手で、繊細で、深く大きな恋愛を経験してきているのだから。

    だから、ファンたちが「ミリヤ」と呼ぶとき、そこには親しみだけではない、歓びと誇りがある。
    歓びは、少し憧れていたクラスメイトと友達になって、その子を名前で呼べるようになったときの歓びだ。
    誇りは、繊細で孤高なミリヤに自分だけはしっかりと共感できるプライドだ。

    ファンからの愛され方にこそ、そのアーティストのアイデンティティが現れる。加藤ミリヤの「憧れていた同性の友達」というキャラクターは唯一無二だ。
    だから、彼女のファンは長く、一途に「ミリヤ」を聴き続けるのだ。
    その行いがまるで、歌の主人公とミリヤと自分自身の、一途な恋愛と夢を成就させるための祈りであるかのように。
    『ファーストネームで呼んで』 を詳しく ≫

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  • Ride My Car

    The ManRay

    ロックバンドがロックしかしない。それって結構珍しい。 The ManRayはそんなバンドだ。 だから安心して聴ける。 メロウにもオシャレにもギャグにもヤケクソにもならず、ひたすらロックが聴ける。 それはとても幸せで、とても稀有なことだったのだとThe ManRayを聴いて思った。 良い意味で、楽曲に楽器が奉仕していない。 ベースとドラムとギターが独立した距離感で立ち回り、そのための

  • RE-FAURÉ

    Jessica × Mizuha Nakagawa × Prefuse73

    クラシック音楽を聴きたい人はたくさんいると思う。 いや、大人なら誰もが一度は「聴こうとした」ことがあると思う。 クラシック音楽は、格好良い。 尊敬される、良質な趣味だ。 日常生活に、クラシック音楽がある。不思議なことにただそれだけで、その日から人生が豊かになってくれそうな気がしてくる。 果たして。 そのようにしてクラシック音楽に触手を伸ばした彼らはその後どうなったか。 Y

  • ニューゲームがはじまる

    水野智広

    幸せの絶頂にいるときに聴きたい音楽がある。悲しみのどん底にいるときに救ってくれる音楽がある。穏やかで安定した毎日だから愛聴できる音楽がある。水野智広の音楽はそのどれでもない。 ひとつキーワードを選ぶとしたら、「不安」だ。 水野智広の音楽は日常の不安を解毒する作用を持つ。どういうことだろうか。 それを明らかにするためにはまず、彼の楽曲に随所に見られるホラー要素について考えてみる必要がある。

  • 恋人ができたんだ

    My Hair is Bad

    若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。 大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。 では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。 メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。 私は、若者が書いたラブソ

  • ハイエース

    フラワーカンパニーズ

    フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、 "いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)" ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。 私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった

  • カガミヨカガミ

    トライアンパサンディ

    ヘビーでポップでオルタナティヴ。曲が良い。トライアンパサンディの楽曲は粒ぞろいだ。それもそのはず、ボーカルのG-YUNcoSANDYは、GOLLBETTYとしてトイズファクトリーから若くしてメジャーデビューしている。 トライアンパサンディは、巷によくある、かわいくて格好良いバンドではないようだ。『カガミヨカガミ』での出だしのビターな歌メロのリフレイン、主張しすぎないギターリフ、声へのエフェク

  • サニー

    黒猫チェルシー

    美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。 コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。 その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンク

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  • ロックバンドがロックしかしない。それって結構珍しい。
    The ManRayはそんなバンドだ。
    だから安心して聴ける。
    メロウにもオシャレにもギャグにもヤケクソにもならず、ひたすらロックが聴ける。
    それはとても幸せで、とても稀有なことだったのだとThe ManRayを聴いて思った。

    良い意味で、楽曲に楽器が奉仕していない。
    ベースとドラムとギターが独立した距離感で立ち回り、そのための道筋を歌が引いている。
    The ManRayはきっと一曲への拘りは薄いのだと思う。
    まるで、世紀の大名曲なら、いくつか既に世に送り出してきたベテランバンドのように。
    その余裕が塩梅の良い編曲に繋がっている。
    Beatlesの『Drive My Car』を彷彿とさせる『Ride My Car』ではとくにそれが顕著だ。

    まず曲が短い。終わり方は崩れ落ちるようにあっさりだ。
    一番盛り上がるのはギターソロ。
    泣きのフックもない。
    BPMもゆっくりだ。
    粘っこいリズム。
    こんな小品。なかなかリード曲にできない。
    要するに一般人には結構レベル高い。

    彼らの楽曲に一貫するこの手の美意識は、何を原動力に成り立っているのだろうか。

    それは自らのバンドコンセプトへの徹底した信頼なのかもしれない。
    Profileには次のように書かれている。


    "荒々しく土臭いサウンドに気怠いなかに苦みを 効かせたヴォーカル。クールかつルードな佇まいで、時代に媚びないロック美学を熱く貫くリアル・ロックバンド!!"


    なるほど、まさしくその通りである。
    良いバンドには良いコンセプトがある。
    良いコンセプトとは、わかりやすいコンセプトだ。
    人のキャラクターと同様で、パッと見で理解しやすいと人は心の障壁を取り除く。
    たくさんの顔と趣味を持っている男が、ラーメンの食べ歩きが趣味です、と自己紹介するように、多様なジャンルの音楽制作に精通したクリエイターが、パワーコードのパンクロッカーとして生きていくことはありえるし、それはとてもクールなことなのだ。私はThe ManRayにはそれと似た佇まいを感じている。

    今後、あくまで友好的に見守りたい課題があるとすれば、The ManRayのコンセプトがあまりに、"時代に媚びないロック"にすぎるところかもしれない。おそらく、一般人には理解できなくても、多くの音楽好きにThe ManRayのセンスは愛されるだろう。全く別のジャンルからもリスペクトされ得る"媚びないロック"がそこにある。
    しかしロックバンドたるもの、時代に媚びずとも、時代が媚びてくるくらいのポピュラリティをどこかで獲得する可能性を秘めて欲しいものだと、私は思っている。
    安心して聴ける良質のロックアルバムを3枚くらい出した暁には、獲得したファンと自らのキャッチコピーを裏切るような動きをしてみては、と思っていたりする。
    『バンドコンセプトへの徹底した信頼』 を詳しく ≫
  • クラシック音楽を聴きたい人はたくさんいると思う。
    いや、大人なら誰もが一度は「聴こうとした」ことがあると思う。

    クラシック音楽は、格好良い。
    尊敬される、良質な趣味だ。
    日常生活に、クラシック音楽がある。不思議なことにただそれだけで、その日から人生が豊かになってくれそうな気がしてくる。

    果たして。
    そのようにしてクラシック音楽に触手を伸ばした彼らはその後どうなったか。

    YouTube、TSUTAYA、タワーレコード。
    ベートーヴェン、モーツァルト、ショパン。
    知っている名前をつかって、馴染みの場所でそれを探して、音源に辿り着く。きっと彼らは感動したはずだ。

    やっぱり、クラシック音楽は良い。

    自分はクラシック音楽を好きになれる。

    自分はクラシック音楽の良さを理解できる……。


    さて、さらにその後は、いかがだろうか。
    私の周りを見渡した限り、そして私自身を振り返った限りにおいて、ほんとうの意味でクラシック音楽を趣味として確立できている人は見当たらない。少しばかり詳しくなって、それきりだ。

    面白いことに、音楽それ自体にどれだけハマっていたかは問題にならない。私のように、創作側に片足を突っ込んで人生を棒に振った輩から、ポップスすら聴かない真っさらな状態でクラシックにチャレンジした人まで。みな同じようにして、クラシックに接近し、そして無かったことにしていった。


    さて、そんな問題に意識的にアプローチしただけでも、good umbrella recordのRE-CLASSIC STUDIESは値千金である。私たちはクラシック音楽を聴きたい。クラシック音楽は私たちに聴かれたい。相思相愛にも関わらず引き裂かれた両者を繋ぐことを、このプロジェクトは目的としている。

    RE-FAURÉではまず、パッケージングの妙を聴いてほしい。
    全40分の音源に、Prefuse73(スコット・ヘレン)による7つのInterlude(幕間)が含まれている。ピアノと歌で再現された13のガブリエル・フォーレの歌曲の間に、適宜、Interludeが挟まるのだ。それがなんとも心強い安心感と、興味をそそるストーリーを与えてくれる。


    ベストアルバムではなくオリジナルアルバムを聴いてこそ、そのアーティストを知れる理由があるとすれば、そこにパッケージングがあるからだ。パッケージングにはアーティストの文脈が顕れる。文脈への理解と、文脈に身を委ねる安心感が、音楽への愛着を強化し私たちを音楽に没入させる。クラシック音楽の敷居が高くなってしまった背景には、クラシック音楽の持つ文脈が、他の音楽に比べて見えづらいことがある。だから、愛着が持続しないのだ。

    Prefuse73の功績だけではない。RE-CLASSIC STUDIESと銘打ったこと自体にも、強い文脈を宿らせる力がある。コンセプトを打ち出し、シリーズをつくったことで、クラシック音楽にトライするときの拠り所の無さが解消されていることに私は気づく。


    楽曲の再評価はそれこそ音源を聴くに任せておこう。
    RE-FAURÉでは、Jessicaのボーカルも良かった。良い意味で気安く、カジュアル。若々しく無垢な声。大作家を歌いこなそうという気負いをあまり感じさせず、だから古典に寄り添いすぎず、成熟しすぎず、瑞々しい現代の音楽になっている。中川瑞葉のピアノはとびきりメロディックだ。流麗だったり軽快だったりする前半から、聴き進むにつれ次第に陰影が強くなっていく後半への流れは、主張を増していくPrefuse73のInterludeとともに、中川瑞葉の熱量が大役を果たしている。

    それにしてもRE-CLASSIC STUDIESは、何もかもが易きに流れるいまの世の中にしては、随分と足腰の強さを感じるプロジェクトだ。WEBページには次のような惹句がある。


    "モーツァルトも、ドビュッシーも、フォーレも、(ビートルズやレディオヘッドのように)素晴らしいメロディーメーカーであり、「ソングライター」です。"WEBページより)


    まったく素晴らしい惹句だ。クラシックもロックもジャズも、どれが良いわけでもないのだ。分断された世界を、再解釈で繋ぐ、真の意味で実験的で批評的なこのプロジェクトを楽しみたい。
    『クラシック音楽は私たちに聴かれたい』 を詳しく ≫
  • 幸せの絶頂にいるときに聴きたい音楽がある。悲しみのどん底にいるときに救ってくれる音楽がある。穏やかで安定した毎日だから愛聴できる音楽がある。水野智広の音楽はそのどれでもない。

    ひとつキーワードを選ぶとしたら、「不安」だ。
    水野智広の音楽は日常の不安を解毒する作用を持つ。どういうことだろうか。
    それを明らかにするためにはまず、彼の楽曲に随所に見られるホラー要素について考えてみる必要がある。


    ホラー小説、ホラー映画。ホラーは人々に恐怖をあたえるジャンルだ。

    恐怖は原始的な感情だ。かつて世界は恐怖に満ちていた。自然災害、獣、暗闇、大海、炎、死、死者、未知数の共同体、敵対する部族、民族。生命の脅威に怯えるとき、人々は恐怖を感じる。

    病気や交通事故などを除いて、生命の脅威がほとんど取り払われたユートピアのような現代社会で、私たちは恐怖以外の些細なものに囚われて生きている。エンターテイメントとしてのホラーは、偉大なる恐怖という感情を利用して、恐怖以外の些細なものごとから私たちを解き放ち、カタルシスを与える力を持っている。

    恐怖以外の些細なものごと。それらは、不安という形で私たちに巣食っている。どう転んでも死にはしないものごとに囚われて、私たちは不安とともに生きている。

    水野智広の音楽が不安を解毒する理由は、現実世界に付きまとう即物的な不安とはまるで異質な、ヒヤッとした社会の裏側をつきつけてくることによる。彼の曲の中ではやすやすと人が死んでしまうが、それをシュールなギャグだと笑い飛ばしてしまうのはちがう。彼の曲には、そうやって笑い飛ばしてしまう自分自身を冷ややかに見ている視線が存在する。
    見えている世界が、一瞬だけネガを反転させて、やがてもとに戻る。戻ってきたときに私たちにはネガの残像が強く焼き付いている。その残像で、目の前に在る当たり前の世界が少しだけ嘘くさく見える。そこに、ホラー短編の読後のような非日常感と、カタルシスがある。そしてその余韻の中でふと気づく。私たちの日常生活に巣食っていた不安たちがそのときとても小さくなっていることに。なぜなら、ネガの反転した世界の恐ろしさが、よほど強烈な印象を残しているからだ。



    音楽的には、メロディ、リフ共に、ひとつの印象的なアイデアだけで一曲を貫き通すことが多く、少し物足りないくらいの小品に仕上げている。短いのに、いや短いからこそ、曲が終わった後に変な余韻を残している。そのあたりも短編小説の趣きだ。抽象度は高いが上述のようにばりばりコンセプチュアルな歌詞世界と曲調がリンクし、オリジナリティは抜群だ。

    音楽にドラマティックな感情の高ぶりを求める癖がついていると、それとは全く異質のベクトルに戸惑うかもしれない。しかし、日常に振り回されていることの小ささを感じてしまうほどの、もっとおおきなものへの畏怖を彼の曲は呼び覚ましてくれる。それは図らずしも、古来からあらゆる芸術の根幹に必要とされてきたものである。
    『反転したネガの残像』 を詳しく ≫
  • 若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。

    大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。
    では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。
    メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。

    私は、若者が書いたラブソングだと思う。
    恋愛は普遍的だ。
    だからこそ、その切り取り方に時代が見え隠れする。


    例えばSHISHAMOの『君と夏フェス』。夏フェスが社交の場として定着した今だからこそ歌になるラブソングだ。昔ならそれはビーチだったかもしれないし、映画館だったかもしれないし、ディスコだったかもしれない。


    My Hair is Badの『恋人ができたんだ』は、男性目線の歌だ。
    新しい恋人ができたことで、以前の恋人を思い出す歌。

    いかにも女々しく、色恋が世界のすべてでいられる年頃の青臭さを感じる。
    私自身が個人的に共感できるかと言えば、正直Noだ。
    大人の男になってしまった青年はもう、過去の恋愛をこれほどまでにウェットに振り返れない。美化こそすれど。

    過去に対してウェットになれるのは若者の特権だ。それは、過去を感傷の対象ではなく、情熱の対象として見ることができている証拠である。なぜそれができるかと言えば、若者はそもそも抱えている過去の絶対量が少なく(故に過去自体に神秘性があり)、その上過去といえども精々、二三年前程度のものだからだ。

    『恋人ができたんだ』において同時代性を感じるために、もうひとつのポイントに着目する。別れた後の恋人、という概念の新しい解釈だ。

    いまの若者の恋愛の主戦場は間違いなく、LINE、Twitter、Instagram、FaceBookなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)である。SNSの本質はアーカイブ性と、公共性だ。結論から言えば、別れた恋人と連絡をとろうとしなくても、SNSを覗けば、元カレ・元カノのその後が見えてしまう。

    SNSは恋愛に新しい観点を持ち込む。自分を振った元カレがまだ自分をフォローしているのを知った上で、あえて落ち込んで見せることもあるだろう。逆に、他の男なんていくらでもいることを見てほしくて、遊んでいることを匂わせた写真をいつも以上にアップロードするかもしれない。切り替えたことを知ってほしくて、アイコンを変えることもあるだろう。シェアした音楽を深読みしてしまうかもしれない。沈黙することすらひとつのメッセージになってしまう。

    SNSは、別れた後の恋人たちをアーカイブし続けることで、恋愛に対して新しい角度でスポットライトを当ててしまった。『恋人ができたんだ』はこの時代に生まれた、そんな新しい恋愛の機微を切り取った、同時代性のあるラブソングである。

    この歌が椎木知仁の実体験にもとづいているかどうかは分からない。いやおそらくそうではないだろう。なぜならあまりにリアルだからだ。

    リアルで写実的な描写を持ち込んだ理由は、生活感を持ち込みたかったからだ。別れた恋人を想う歌、という平凡なテーマを、現代の若者の当たり前の生活感で描けば、それが新奇性のあるラブソングになる。椎木知仁はそんな風にして、平凡なテーマを新しいラブソングに仕上げるソングライターなのだと思う。
    『SNS時代のラブソング』 を詳しく ≫
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