ZeroBeat自分でみつける音楽のためのWEBメディア

TAG SEARCH

RANDOM MUSICランダムおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • Paris / 結局地元 feat.Y’S

    KOHH

    両親や二つ下の弟、中学や高校時代を共にした友人たちが、私が離れたあともずっとあの町でくらし続けていることを思うと不思議な感慨がある。 KOHHを聴いて、弟に聴かせたいと思った。 都会に憧れて18で上京した私とちがって、弟は地元の仲間や地元の店を愛し、そこで暮らし続けている。彼ならきっと、「結局地元」と発するKOHHのパフォーマンスが、開き直りでも諦めでもなく、むしろラディカルで本質的なもの

  • 夢見る人

    さだまさし

    ドラマ主題歌として書き下ろしの曲。 線の細いフォーク歌手であった往年のイメージからすると、出だしから、重厚なストリングスとピアノの光沢にいささか面食らう。 AKB48の指原莉乃が自身の誕生日にディナーショーを開催して話題になった。さすがの彼女も当日はドレスアップしており、日本歌謡史のスタンダードナンバーを中心に据えたセットリストはディナーショーに相応しい、フォーマルな仕上がりだったようだ。

  • ソレデモシタイ

    平井 堅

    平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。 平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へ

  • 自意識不明

    nervous light of sunday

    カオティックという言葉がある。 その言葉の選ばれ方において、カオティックと、カオスは全く別物である。 カオスは字義通り混沌の意味。 ジャンルレスであったり、特にそれが無秩序な印象につながっていたりすると人は、カオスな曲だ、と表現する。 他方、カオティックはむしろ秩序だ。 具体的には、スクリーモ、あるいはスクリーモ系のエモ、ハードコア、メタルコア、ミクスチャーロックなどを主戦場とするバ

  • 恋をしたのは

    aiko

    aikoはメロディとコードが面白い。 それはよく言われていることだ。 『恋をしたのは』はコンセプチュアルなロングトーンや、イレギュラーな展開を取り入れた曲だ。一度きりの大サビのために、aikoは確信犯的に楽曲をセーブしている。遊んでいるなあと思う。曲で。とても実験的な曲だが、それをポップスとして組み立てる接着剤になっているのは、変幻自在なコード感とそれに溶け込んだメロディだ。aikoのメロ

  • Be Noble

    ぼくのりりっくのぼうよみ

    音楽業界という謎の機関による絶賛を除いて、「ぼくのりりっくのぼうよみ」が絶賛されているところを見たことがない。 いきなり口がわるく申し訳ないがぼくはそう思う。 ただ、ぼくにとって音楽業界という謎の機関は、芸能関係者という謎の関係者と同じくらい情報に通じているという認識なので、ぼくは絶大な信頼を置いている。 だから、ぼくは「ぼくのりりっくのぼうよみ」を全面的に信頼している。もしも「ぼく

  • STARTING NOW!

    水樹奈々

    アニソン界の覇権を握ったまま長いが、そのボーカルスタイルはアニメ声とは程遠い。当初から、声優ではなく本格的な歌手を志していた背景からして後続とは一線を画している。 『STARTING NOW!』はストイックでハードなロックサウンドがかっこいい。 水樹奈々の十八番といえるこのスタイル。無論、歌唱技術には余裕しか感じない。 ハードロック出自のヘヴィーな楽器隊とポップなボーカルの対比は、Jud

RANDOM REVIEWランダムレビューから音楽をみつける

  • "小さい頃は 神様がいて
      不思議に夢を かなえてくれた"

    "小さい頃は 神様がいて
      毎日愛を 届けてくれた" (やさしさに包まれたなら)


    荒井由実の歌った神様は小さい頃にだけ存在する。
    夢をかなえ、愛を届ける神様だ。
    荒井由実の歌った神様は何のために存在するのだろうか。それは私たちが、夢をかなえ、愛を届ける存在であることを、人生の始まりの子供時代に学ぶためだ。私たちはその教えを胸に、神様がいなくなったあとの人生を渡ってゆく。あたかも神様が、私たちに80年効く魔法をかけて去って行く存在であるかのように。



    それでは呂布カルマにとっての神様とはなんだろうか。
    このような問いを立てるのも、『オーライオーライ』ではユーミンに負けず劣らず、神様という単語が印象的に使用されているからだ。


    "神様が僕にだけ秘密で教えてくれた呪文
    世界中の人が幸せになる代わりに歌うことがなくなるよう

    神様が僕にだけ秘密で教えてくれた呪文
    世界中の涙が笑顔になるがしかし芸術はくたばるよう" (オーライオーライ)


    フックにあたるこのリリックでは、"世界中の人が幸せ"で、"世界中の涙が笑顔になる"世界を理念として掲げていることがわかる。神様はそれを叶える呪文を知っており、その呪文を呂布カルマが授かったというストーリーが描かれる。

    呂布カルマが授かる呪文なのだからそれはヒップホップだろう。
    ここでの主たる主張は、以下の三点にまとめられる。


    1.選ばれし者としての呂布カルマ
    2.呪文 = ヒップホップが世界を幸せに導くという理念
    3.そして理念が成就した暁には芸術はくたばり、歌うことはなくなり、すなわちヒップホップがくたばるという歴史観


    ここには驚くべき、宗教との相似がある。一般に宗教は、幸福の理念を持ち(2)、その実現のための歴史を持ち(3)、それを広めるための使徒(1)を持つからだ。

    ここで述べたいのは、呂布カルマが特定の宗教を信仰しているという話ではない。期せずしてその構図が似てしまっているという点だ。



    紐解こう。
    キーワードはやはり神様である。
    クライマックスのフックを引用する。


    "すれ違う瞬間に何か見た
    神様と目が合って理解した

    全部わかった" (オーライオーライ)


    不気味なほどの全能感であるが、実は先程のリリックとは大きな違いがある。それは、呂布カルマ個人の、プライベートな"理解"に比重が置かれている点だ。加えて、"すれ違う"という言葉が、呂布カルマが街中を歩き回るだけのMVと親和し、その宗教的体験が日常に潜むものであることをリスナーは唐突に知らされる。要するに、ヒップホップで世界を幸せにする壮大な歴史だったはずが、個人としてすべてを理解し何かを悟ることへと、劇的にスケールダウンされている。

    その劇的なスケールダウンが、安易な着地点として位置づけられず、むしろこの曲の不気味さを際立たせていることに注目する必要がある。

    これはおそらく多分にテクニカルな手法である。トラックの良さやリリック全体の刷り込みも効いている。もちろんパフォーマンスもある。しかし決定打は、世界への使命を負った使徒である呂布カルマから、自分への使命を負った個人としての呂布カルマへのモードチェンジである。このモードチェンジが上記のスケールダウンに内在されている。そのスケールダウン、落とし込みを目の当たりにし、リスナーはあたかも世界全体を幸福にするという宗教的なストーリーが呂布カルマ個人へと落とし込まれたかのような錯覚を覚え、凄みとともに不気味さを感じるのである。

    ここでは神様の位置づけも変わっている。使徒に呪文を授け、遣わす支配的な存在から、日常のストリートに潜み、すれ違いざまに"全部わか"らせる脱支配的な存在に変わっている。


    さて、ユーミンをもう一度思い出そう。
    ユーミンの神様は、『オーライオーライ』で呂布カルマが行ったアクロバティックなモードチェンジの、結論だけを切り取ったものと実は似ている。ユーミンの神様も、日常に潜み、個人へ気づきを与える、脱支配的な神様だからだ。

    そして『オーライオーライ』のすごさは、超越的で絶対的な幸福の理念と歴史の存在に今一度チャレンジしていることにある。それは永らく人類がチャレンジし続け、そして現代では諦められつつあることだ。

    そのチャレンジのために呂布カルマは、逆説的にユーミン風の現代的で脱支配的な神様を導入している。

    さきほどは、両者を繋ぐに際してモードチェンジと称したが、正確には違う。呂布カルマのモードはチェンジしていない。二つのモードは一曲の中に併存されているのだ。そしてその目的は、双方の強度を高め合うことにあり、それこそが詩人、呂布カルマの説得力の源泉である。
    『神様の存在 ユーミンとの比較』 を詳しく ≫
  • 「最近の若手には骨のあるやるがいないんです」
    「あんたは春になるといつもそう言うな。新入りってのはな、朝顔みたいなものなんだよ」
    「アサガオ?」
    「ああ。アサガオだ。芽が出るまではとにかく水をやることだけ考えていれば良い。支柱をたててこっちが望む方向にツルを巻いてもらうのはそのあとの話だ」
    「なるほど。おやじさんの言うことはやはり含蓄が違う」
    「お代はまけないよ」
    「わかってますって。おれも疲れて飲みに来たサラリーマンにサラッと人生を説けるオトナになってみたいってだけです。ところで、じつのところ今回はそれとは話が違います」
    「違う話?」
    「うん。新入社員じゃなくて、バンドです」
    「バンド?そういやあんたの仕事は編集者だったな。酒を飲んでるところしか見たことがなかった」
    「それはこの店にきてるからでしょ。うん。音楽雑誌のね」
    「それでバンドがどうしたって?」
    「もう10年この仕事をやってきました。バンド音楽にハマって新譜をチェックするようになってからは15年。それが最近すっかり新譜を追う気力が無くなってきているんです。仕事じゃなかったらおれはもうロックバンドを聴いてすらいないんじゃないかと思う」
    「忙しすぎるんじゃねえのか。オンナつくってドライブでもしてみろ。オレの頃はみんなユーミンをカセットテープに入れていたもんだ」
    「忙しいのもある。耳が肥えてしまっているのもある。しかし、一番の原因は面白いバンドがでてこないことにあると自分では思っているんです。少なくともおれはそう考えている。もちろんいまも絶え間なく新人バンドのデビューはある。でも、それがことごとく面白くない」
    「面白くないってのはお前の都合だ。どこがどう面白くないのか聞かせてもらおうじゃないか」
    「そうです。それは確かにおれの都合です。おれはこう思っています。いまのバンドは節操がない」
    「節操?」
    「うん。要するに、ロックバンドが貧乏になることを怖がっている」
    「それがどう節操に繋がるんだ?むしろお行儀が良くて小じんまりとしたやつが最近は多いじゃないか」
    「まず第一に、プロモーションへの抵抗が全くない。第二に、アルバムをコンスタントにつくりすぎる。第三にそう、お行儀が良い」
    「なるほど、ロックバンドらしくないってわけだ」
    「ロックバンドらしくない在り方が既存のロックバンドへのオルタナティブならまだ良いんです。だけどそうじゃない。例えばジョンレノンが最新のグッズが完成する度に自前のECサイトをリツイートしたらどう思います?お茶の間にも届けたいんだといってミュージックステーションに出たらどう思います?デビューからの節目だからって十年ごとに武道館公演をやったら?」
    「おもしろいだろうが、かっこよくはないわな」
    「うん。ビジネスを理解するロッカーや、現実を見て販促できるロッカーなんて、そもそも本質的に面白くない。それを一種のオルタナティブに見せたところで、長期的には音楽の面白さがすり減るだけなんだと思っています」
    「アルバムはコンスタントに出してくれたほうが良いんじゃないのか?」
    「みながデビットボウイやプリンスならね。それが果てしない創作意欲なのか、狭い世界でのルーティンワークなのかって話です。本当に自分たちが世に出さなければいけないアルバムでない限り下手に作品をつくらないほうが良いとおれは思う。少なくともロックバンドなら」
    「ピストルズのように一発かまして解散しろ、ってか」
    「奇をてらえってわけじゃないんです。不良ぶってろってわけじゃないんです。ただピストルズもジョンレノンも町田町蔵も、もしかしたら尾崎豊なんかも、その物分りの悪い姿勢がパフォーマティブなものでしか無かったわけはないと思っています。音で裏切らないために、彼らの中では有機的な接続があった。いまのバンドにはその双方がない」
    「おれは景気の悪さも影響してると思うぜ。ミュージシャンも人の子だ。背に腹はかえられねえ」
    「おっしゃる通り。この国の景気の停滞は甚だしい。雇用は安定せず、賃金も上昇しない。エアポケットのような儲け話も、契約社会と情報社会で淘汰されつつある」
    「音楽業界はもっと悲惨だ。栄光が輝かしいだけにね」
    「そう。だから、ロックミュージシャンであっても、サラリーマンのように手堅く、細かい仕事で細かい実績を刻んでいく。フォロワーを増やしていく。一発当たることなんて原理的にもうないのだから。それはよくわかる」
    「突破口は?」
    「ないです」
    「お前にできることは」
    「それはあります。それが仕事だとは思っていますから。しかし、音楽雑誌は明らかに回帰している。キャリアの長いアーティストたちに。リスナーにおいても同様です。若者がつくった音楽を若者が聴いて、それがユースカルチャーとして神聖化される図式が成立しなくなっている」
    「有望な若手か」
    「そうです」
    「toldってバンド知ってるか?」
    「told?」
    「最近のバンドだ」
    「知らないです。70'sまでが専門領域のおやじさんから最近のバンドの名前が出るってのは珍しいですね。それがどうかしたんですか」
    「この界隈はバンドマン多くてな」
    「そうでしょうね、中央線沿線は。私もそんな雰囲気に憧れて田舎からやってきたたちですよ」
    「常連がそのバンドの熱心なファンなんだ」
    「アマチュアですか?」
    「半分はそんなものだ。おれも一枚アルバムもらって聴いてみたんだが少しおもしろいとおもった。まず、やろうとしていることが少ないなと感じた。これは良い意味で」
    「やろうとしていること?」
    「ああ。キャリアは10年弱あるらしいが、アルバムはここ2、3年に二枚出しただけだ。第一に音数が少なくバンドの音しか入っていない」
    「でも、そんなアーティストはたくさんいるのでは?」
    「いる。でも違う。すべての曲で定位がすごくはっきりしているんだ、toldというバンドは」
    「スピーカーの左右に音を振る定位?」
    「そう、特に二本のギター。これがどの曲でも、お揃いの衣装を着た強面のボディーガードのように左右にきっちり控えて鳴っていて、それがとても形式的なんだ」
    「ボーカルは?」
    「ボーカルはギタリストがとってる。ただ、前身のバンドではピンのボーカルがいたらしいんだな。それがそのまま抜けたのがいまのtoldになっている。だからいい意味で真ん中が空いている音作りになっているのかもしれない」
    「それは聴いてみたいな。バンド名もシンプルでセンスが良いですね」
    「曲名もそうなんだ。おれが気に入っている曲は『Fall』という」
    「面白いですね。最近はSEO対策したブログ記事のタイトルみたいなバンド名や曲名が多いですから」
    「気負いがない、っていうのかな。それが、時として貧相になりがちなくっきりした定位をサラッとやってのけるのだと思う」
    「メロディは?」
    「控えめだな。キャッチーだけど、歌に背中を預けたポップソングではない」
    「オルタナ?」
    「うん、その類いだな。Fenderだっけか、低音も高音も鋭利な音だ。でも下手な展開や、賢しらぶった歌いまわしとか、気味の悪いポエムとか、そういった鼻につくような背伸びがない」
    「気負いがないんですね」
    「気負いがないんだな」
    「で、それがどうかしたんですか、toldが」
    「いや、あんたが骨のある若手がいないっていうからさ」
    「ああ、それで」
    「骨はあると思うぜ。ただ、養殖して服着せて儲けることはできねえかもしれねえな」
    「売れないですか?」
    「そんなタイプじゃない」
    「それでも構わないですよ。気負いすぎて縮こまった80点のバンドばかりですから」
    「その意味じゃ、toldは70点だな。でも全くテスト勉強はしていない」
    「それは必要に応じてこっちがさせるんです。勉強なんていらないと思っているバンドにしかシーンをつくるポテンシャルはありません」
    「威勢がよくなってきたな」
    「良いバンドの口コミですから。職業病かもしれません」
    「酒のおかげだろ。まあとにかく聴いてみることだな」
    『最近の若手バンドについての与太話』 を詳しく ≫
  • ヘビーでポップでオルタナティヴ。曲が良い。トライアンパサンディの楽曲は粒ぞろいだ。それもそのはず、ボーカルのG-YUNcoSANDYは、GOLLBETTYとしてトイズファクトリーから若くしてメジャーデビューしている。

    トライアンパサンディは、巷によくある、かわいくて格好良いバンドではないようだ。『カガミヨカガミ』での出だしのビターな歌メロのリフレイン、主張しすぎないギターリフ、声へのエフェクト。このパートはサビではないのに、サビのように聴かせる。とにかく曲のセンスが良いという印象。

    その後のAメロも良い。ラウドな開放感ですべるように展開していくと思いきや、歪んだキックとボーカルで無防備になって良質なブレーキ。そして、間髪いれずにブリッジミュートを効かせて冒頭と同じメロディへ。

    フェス受けしそうなハッピーなパーティー感もちゃんとある一方で、最後の最後ではじけきらないコシの太さが楽曲にある。アナログで渋い。歌ものになりきらないのにポップ。今時のバンドに珍しいバランスの良さがある。


    その秘密のひとつはどうやら作曲手法にあるようだ。彼らは、メロディでも歌詞でもなく、オケからつくることが多いそうだ。シンセとバンドががっつり絡む音楽性を持つバンドは、結局のところサビでブチ上げてシンガロングを叩き出すことを楽曲制作の目標にしている場合が多いようにみえる。

    その点、トライアンパサンディは違う。以前、G-YUNcoSANDYはインタビューで明確に次のように言っている。


    「ただ、“踊れる、のれる、あがる音楽!”というだけの音楽にはなりたくなかった」


    彼らの音楽があがりきらないのは確信犯である。
    踊って、のって、あがるだけではない何か。
    それを掴むために、シンガロングを目論んだメロディをでっち上げるより先に、オケをつくる必要があった。私はそう結論づけたい。展開と構成とコード(ハーモニー)とリズム、これらの妙が音楽の豊かさであり、それを駆使してトライアンパサンディはその曲で表現したいものを形にする。

    オケ先行ゆえに、歌メロは後手に回り、制約される。そのために、逆説的に他バンドと一線を画すオルタナティヴなメロディを産んでいることも見落とせない。


    もうひとつ、彼らのハイセンスを裏付けるのは、G-YUNcoSANDYがそもそもスカパンク畑の人間だったことだ。トライアンパサンディでは、表面こそエレクトロになったが、良い意味で軽さのあるパンキッシュなアレンジの遺伝子が引き継がれている。
    女性ボーカルのロックバンドには、下手にメタル風な重いギターをフィーチャーしたリフやソロで背伸びしているものが多々ある。彼女たちは、格好良さ、というベクトルへの拘りがあるのだ。気持ちはわかる。でもラウドであることは格好良いことではないのだ。
    トライアンパサンディにはそういった気負いがない。G-YUNcoSANDYがパンクを知っているからだ。


    サビでメロディはひとときの開放感につつまれるが、「宣戦布告しなきゃね」でキリッとそれを畳む。何メロなのかラップなのか良くわからないパートを挟み、再びサビではないサビへ。


    "カガミヨカガミさあ答えてめくるめく未来をおしえて
    カガミヨカガミさあ答えてめくらます世界で"


    このリフレインがなんとも使い勝手の良いフックになり、自由な曲展開を生み出している。その後も最後まで、読めない展開がいとも自然に展開する。

    個人的には作曲面でのブレーンがいるのかどうか気になるところ。もしいるのだとしたらその人のルーツはいかなるものなのだろうか。また、元ベーシストがバンドのアレンジャーに転身したというのも面白い。良いタイアップがつけばひとっ飛びでトップシーンで見かけるようになりそうだが、果たしていかがなものか。
    『歌ものになりきらないのにポップ』 を詳しく ≫
  • 金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。
    無理もない。この人は持てる者だ。


    まず普通に顔が格好良い。
    そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。

    BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は、金井のこうした育ちの良さが大きく寄与している。メンバーの確かな演奏力にも、きっと同様のことが言える。


    金井政人は理想が高く、そこへ向かう努力を怠らない。彼はある種のナルシストであり、それが彼の人生に完全にポジティブにフィードバックされている稀有なタイプだ。


    金井政人はいくつものカードを持っている。その中でも、彼がバンドに夢中になって以降最も念入りに育てているカードが、作家性という名のカードだ。作家性というキーワードはインタビューなどでも本人の口から触れられている。


    彼の高いモチベーションと豊かな文化資本と感の良さが、ヤンチャなイケメンのレベルでしかなかった作家性を、プロのソングライターという看板に耐えるところまで引き上げた。アーティストかくあるべし。金井政人は、自身の潜在的な作家性を肯定せず、生真面目に理想を追った上で努力する。読書については、次のように豪語している。


    "日課の読書は言葉を知らないバカでありたくない義務感にのみ由来している"(ブログ)


    最新アルバム『Fabula Fibula』でも作家性へのチャレンジが行われている。
    『Fabula Fibula』は、"収録されている全ての曲に街の物語とテーマがあり、アルバム1枚で一つの地図ができあがる"(リアルサウンド)というコンセプトを持ったアルバムだ。


    サージェント・ペパーズ以降、ロックは若者の遊びから離れ、芸術になっていく。その象徴がコンセプトアルバムという試みだ。金井にとって今のBIGMAMAは、芸術のステージにあると言える。


    『BLINKSTONEの真実を』では、フィクショナルな雰囲気がむんむんであることをまず指摘したい。
    美術館で撮影したMVは言わずもがな、冷たくヨーロピアンなメロディラインは、ポップミュージックとして落ち着いてしまうことを拒む強さがある。
    面白いのは、ハードロックなギターリフをガッツリ組み上げた上で、このような雰囲気に持っていくところだ。当然だが、作家性への拘りが第一に追求するのは歌詞ではない。オリジナリティだ。
    その点、チャレンジングなサウンドや編曲は金井にとってマスト事項となり、それは『BLINKSTONEの真実を』に象徴的である。


    歌詞にも一見の価値がある。


    "Don't look into her eyes
    dangerous It's a sweet trap
    決してその目を合わせてはいけない"

    "目と目が合えばその瞬間に
    氷のような冷たい接吻
    恋と地獄の底なし沼へ"

    "Medusa she is Medusa
    criminal she is criminal
    BLINKSTONEの真実を"


    BLINKはまばたきだ。見たものを石に変えてしまう、ギリシア神話のメデューサをモチーフにした物語だと分かる。
    気になるのは、"she is criminal"というセンテンスだ。メデューサがある種害悪のある存在であることは周知の事実である。つまり、彼女がcriminalであることを客観的に指摘する行為は、原理的には伝えるべき情報から省かれている。
    逆説的に解釈できるのは、メデューサ、あるいはメデューサに例えられている女性は、crinimalな存在ではないということである。そして彼女をcriminalと主張するのは、あくまで物語の語り手であり、それはひとつの主観でしか無いことを覚えておきたい。
    冒頭には次のような歌詞がある。


    "決してその目を合わせてはいけない"


    "その目"は、メデューサの目ではなく語り手の目を指す。
    ここにおいても、客観的にメデューサをフィーチャーするのであれば、「その目を見てはいけない」あるいは「その目に合わせてはいけない」と表現するほうがより自然な表現だと感じる。メデューサの目でなく、語り手の目が目的語となっていることに、客観ではなく主観に力点が置かれていることが象徴される。


    最後に、"BLINKSTONEの真実を"について。
    BLINK、まばたきをするのはやはり物語の語り手だ。
    そして"真実"があると説く。
    真実は物語が主観で描かれるときのみ脚光を浴びる。なぜなら主観から真実は隠れるから。
    逆に、客観とは神の視点であり、客観である限り真実は開かれている。


    まとめると、この曲の物語は、極度に語り手の主観に依存しており、それがひとつの仕掛けになっている。
    メデューサを一方的に、criminalな存在にしているのは、物語の語り手だ。

    そして真実はいつだって主観の外側に在る。この曲は、主観とは異なった真実を、間接的に読み取らせる構造になっている。ちなみにその真実がなんなのかは描かれていない。とはいえ、主観の記述を全面的に反転させることがヒントになるだろう。そこでボンヤリと見えるのは、メデューサという外的な危機ではなく、語り手自身の内的な退廃と、それがある状況に陥ったときの人間の宿命的なものであるという諦観、そして破滅的なロマンである。


    以上が、金井政人にとってどれだけ意識的なアプローチであったかは大した問題ではない。なぜなら、真実は金井政人の主観の外側にあるからだ。金井政人の作家性に誓って。
    『金井政人の作家性 メデューサの真実』 を詳しく ≫

NEW MUSIC最新のおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • Ride My Car

    The ManRay

    ロックバンドがロックしかしない。それって結構珍しい。 The ManRayはそんなバンドだ。 だから安心して聴ける。 メロウにもオシャレにもギャグにもヤケクソにもならず、ひたすらロックが聴ける。 それはとても幸せで、とても稀有なことだったのだとThe ManRayを聴いて思った。 良い意味で、楽曲に楽器が奉仕していない。 ベースとドラムとギターが独立した距離感で立ち回り、そのための

  • RE-FAURÉ

    Jessica × Mizuha Nakagawa × Prefuse73

    クラシック音楽を聴きたい人はたくさんいると思う。 いや、大人なら誰もが一度は「聴こうとした」ことがあると思う。 クラシック音楽は、格好良い。 尊敬される、良質な趣味だ。 日常生活に、クラシック音楽がある。不思議なことにただそれだけで、その日から人生が豊かになってくれそうな気がしてくる。 果たして。 そのようにしてクラシック音楽に触手を伸ばした彼らはその後どうなったか。 Y

  • ニューゲームがはじまる

    水野智広

    幸せの絶頂にいるときに聴きたい音楽がある。悲しみのどん底にいるときに救ってくれる音楽がある。穏やかで安定した毎日だから愛聴できる音楽がある。水野智広の音楽はそのどれでもない。 ひとつキーワードを選ぶとしたら、「不安」だ。 水野智広の音楽は日常の不安を解毒する作用を持つ。どういうことだろうか。 それを明らかにするためにはまず、彼の楽曲に随所に見られるホラー要素について考えてみる必要がある。

  • 恋人ができたんだ

    My Hair is Bad

    若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。 大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。 では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。 メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。 私は、若者が書いたラブソ

  • ハイエース

    フラワーカンパニーズ

    フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、 "いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)" ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。 私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった

  • カガミヨカガミ

    トライアンパサンディ

    ヘビーでポップでオルタナティヴ。曲が良い。トライアンパサンディの楽曲は粒ぞろいだ。それもそのはず、ボーカルのG-YUNcoSANDYは、GOLLBETTYとしてトイズファクトリーから若くしてメジャーデビューしている。 トライアンパサンディは、巷によくある、かわいくて格好良いバンドではないようだ。『カガミヨカガミ』での出だしのビターな歌メロのリフレイン、主張しすぎないギターリフ、声へのエフェク

  • サニー

    黒猫チェルシー

    美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。 コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。 その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンク

NEW REVIEW最新レビューから音楽をみつける

  • ロックバンドがロックしかしない。それって結構珍しい。
    The ManRayはそんなバンドだ。
    だから安心して聴ける。
    メロウにもオシャレにもギャグにもヤケクソにもならず、ひたすらロックが聴ける。
    それはとても幸せで、とても稀有なことだったのだとThe ManRayを聴いて思った。

    良い意味で、楽曲に楽器が奉仕していない。
    ベースとドラムとギターが独立した距離感で立ち回り、そのための道筋を歌が引いている。
    The ManRayはきっと一曲への拘りは薄いのだと思う。
    まるで、世紀の大名曲なら、いくつか既に世に送り出してきたベテランバンドのように。
    その余裕が塩梅の良い編曲に繋がっている。
    Beatlesの『Drive My Car』を彷彿とさせる『Ride My Car』ではとくにそれが顕著だ。

    まず曲が短い。終わり方は崩れ落ちるようにあっさりだ。
    一番盛り上がるのはギターソロ。
    泣きのフックもない。
    BPMもゆっくりだ。
    粘っこいリズム。
    こんな小品。なかなかリード曲にできない。
    要するに一般人には結構レベル高い。

    彼らの楽曲に一貫するこの手の美意識は、何を原動力に成り立っているのだろうか。

    それは自らのバンドコンセプトへの徹底した信頼なのかもしれない。
    Profileには次のように書かれている。


    "荒々しく土臭いサウンドに気怠いなかに苦みを 効かせたヴォーカル。クールかつルードな佇まいで、時代に媚びないロック美学を熱く貫くリアル・ロックバンド!!"


    なるほど、まさしくその通りである。
    良いバンドには良いコンセプトがある。
    良いコンセプトとは、わかりやすいコンセプトだ。
    人のキャラクターと同様で、パッと見で理解しやすいと人は心の障壁を取り除く。
    たくさんの顔と趣味を持っている男が、ラーメンの食べ歩きが趣味です、と自己紹介するように、多様なジャンルの音楽制作に精通したクリエイターが、パワーコードのパンクロッカーとして生きていくことはありえるし、それはとてもクールなことなのだ。私はThe ManRayにはそれと似た佇まいを感じている。

    今後、あくまで友好的に見守りたい課題があるとすれば、The ManRayのコンセプトがあまりに、"時代に媚びないロック"にすぎるところかもしれない。おそらく、一般人には理解できなくても、多くの音楽好きにThe ManRayのセンスは愛されるだろう。全く別のジャンルからもリスペクトされ得る"媚びないロック"がそこにある。
    しかしロックバンドたるもの、時代に媚びずとも、時代が媚びてくるくらいのポピュラリティをどこかで獲得する可能性を秘めて欲しいものだと、私は思っている。
    安心して聴ける良質のロックアルバムを3枚くらい出した暁には、獲得したファンと自らのキャッチコピーを裏切るような動きをしてみては、と思っていたりする。
    『バンドコンセプトへの徹底した信頼』 を詳しく ≫
  • クラシック音楽を聴きたい人はたくさんいると思う。
    いや、大人なら誰もが一度は「聴こうとした」ことがあると思う。

    クラシック音楽は、格好良い。
    尊敬される、良質な趣味だ。
    日常生活に、クラシック音楽がある。不思議なことにただそれだけで、その日から人生が豊かになってくれそうな気がしてくる。

    果たして。
    そのようにしてクラシック音楽に触手を伸ばした彼らはその後どうなったか。

    YouTube、TSUTAYA、タワーレコード。
    ベートーヴェン、モーツァルト、ショパン。
    知っている名前をつかって、馴染みの場所でそれを探して、音源に辿り着く。きっと彼らは感動したはずだ。

    やっぱり、クラシック音楽は良い。

    自分はクラシック音楽を好きになれる。

    自分はクラシック音楽の良さを理解できる……。


    さて、さらにその後は、いかがだろうか。
    私の周りを見渡した限り、そして私自身を振り返った限りにおいて、ほんとうの意味でクラシック音楽を趣味として確立できている人は見当たらない。少しばかり詳しくなって、それきりだ。

    面白いことに、音楽それ自体にどれだけハマっていたかは問題にならない。私のように、創作側に片足を突っ込んで人生を棒に振った輩から、ポップスすら聴かない真っさらな状態でクラシックにチャレンジした人まで。みな同じようにして、クラシックに接近し、そして無かったことにしていった。


    さて、そんな問題に意識的にアプローチしただけでも、good umbrella recordのRE-CLASSIC STUDIESは値千金である。私たちはクラシック音楽を聴きたい。クラシック音楽は私たちに聴かれたい。相思相愛にも関わらず引き裂かれた両者を繋ぐことを、このプロジェクトは目的としている。

    RE-FAURÉではまず、パッケージングの妙を聴いてほしい。
    全40分の音源に、Prefuse73(スコット・ヘレン)による7つのInterlude(幕間)が含まれている。ピアノと歌で再現された13のガブリエル・フォーレの歌曲の間に、適宜、Interludeが挟まるのだ。それがなんとも心強い安心感と、興味をそそるストーリーを与えてくれる。


    ベストアルバムではなくオリジナルアルバムを聴いてこそ、そのアーティストを知れる理由があるとすれば、そこにパッケージングがあるからだ。パッケージングにはアーティストの文脈が顕れる。文脈への理解と、文脈に身を委ねる安心感が、音楽への愛着を強化し私たちを音楽に没入させる。クラシック音楽の敷居が高くなってしまった背景には、クラシック音楽の持つ文脈が、他の音楽に比べて見えづらいことがある。だから、愛着が持続しないのだ。

    Prefuse73の功績だけではない。RE-CLASSIC STUDIESと銘打ったこと自体にも、強い文脈を宿らせる力がある。コンセプトを打ち出し、シリーズをつくったことで、クラシック音楽にトライするときの拠り所の無さが解消されていることに私は気づく。


    楽曲の再評価はそれこそ音源を聴くに任せておこう。
    RE-FAURÉでは、Jessicaのボーカルも良かった。良い意味で気安く、カジュアル。若々しく無垢な声。大作家を歌いこなそうという気負いをあまり感じさせず、だから古典に寄り添いすぎず、成熟しすぎず、瑞々しい現代の音楽になっている。中川瑞葉のピアノはとびきりメロディックだ。流麗だったり軽快だったりする前半から、聴き進むにつれ次第に陰影が強くなっていく後半への流れは、主張を増していくPrefuse73のInterludeとともに、中川瑞葉の熱量が大役を果たしている。

    それにしてもRE-CLASSIC STUDIESは、何もかもが易きに流れるいまの世の中にしては、随分と足腰の強さを感じるプロジェクトだ。WEBページには次のような惹句がある。


    "モーツァルトも、ドビュッシーも、フォーレも、(ビートルズやレディオヘッドのように)素晴らしいメロディーメーカーであり、「ソングライター」です。"WEBページより)


    まったく素晴らしい惹句だ。クラシックもロックもジャズも、どれが良いわけでもないのだ。分断された世界を、再解釈で繋ぐ、真の意味で実験的で批評的なこのプロジェクトを楽しみたい。
    『クラシック音楽は私たちに聴かれたい』 を詳しく ≫
  • 幸せの絶頂にいるときに聴きたい音楽がある。悲しみのどん底にいるときに救ってくれる音楽がある。穏やかで安定した毎日だから愛聴できる音楽がある。水野智広の音楽はそのどれでもない。

    ひとつキーワードを選ぶとしたら、「不安」だ。
    水野智広の音楽は日常の不安を解毒する作用を持つ。どういうことだろうか。
    それを明らかにするためにはまず、彼の楽曲に随所に見られるホラー要素について考えてみる必要がある。


    ホラー小説、ホラー映画。ホラーは人々に恐怖をあたえるジャンルだ。

    恐怖は原始的な感情だ。かつて世界は恐怖に満ちていた。自然災害、獣、暗闇、大海、炎、死、死者、未知数の共同体、敵対する部族、民族。生命の脅威に怯えるとき、人々は恐怖を感じる。

    病気や交通事故などを除いて、生命の脅威がほとんど取り払われたユートピアのような現代社会で、私たちは恐怖以外の些細なものに囚われて生きている。エンターテイメントとしてのホラーは、偉大なる恐怖という感情を利用して、恐怖以外の些細なものごとから私たちを解き放ち、カタルシスを与える力を持っている。

    恐怖以外の些細なものごと。それらは、不安という形で私たちに巣食っている。どう転んでも死にはしないものごとに囚われて、私たちは不安とともに生きている。

    水野智広の音楽が不安を解毒する理由は、現実世界に付きまとう即物的な不安とはまるで異質な、ヒヤッとした社会の裏側をつきつけてくることによる。彼の曲の中ではやすやすと人が死んでしまうが、それをシュールなギャグだと笑い飛ばしてしまうのはちがう。彼の曲には、そうやって笑い飛ばしてしまう自分自身を冷ややかに見ている視線が存在する。
    見えている世界が、一瞬だけネガを反転させて、やがてもとに戻る。戻ってきたときに私たちにはネガの残像が強く焼き付いている。その残像で、目の前に在る当たり前の世界が少しだけ嘘くさく見える。そこに、ホラー短編の読後のような非日常感と、カタルシスがある。そしてその余韻の中でふと気づく。私たちの日常生活に巣食っていた不安たちがそのときとても小さくなっていることに。なぜなら、ネガの反転した世界の恐ろしさが、よほど強烈な印象を残しているからだ。



    音楽的には、メロディ、リフ共に、ひとつの印象的なアイデアだけで一曲を貫き通すことが多く、少し物足りないくらいの小品に仕上げている。短いのに、いや短いからこそ、曲が終わった後に変な余韻を残している。そのあたりも短編小説の趣きだ。抽象度は高いが上述のようにばりばりコンセプチュアルな歌詞世界と曲調がリンクし、オリジナリティは抜群だ。

    音楽にドラマティックな感情の高ぶりを求める癖がついていると、それとは全く異質のベクトルに戸惑うかもしれない。しかし、日常に振り回されていることの小ささを感じてしまうほどの、もっとおおきなものへの畏怖を彼の曲は呼び覚ましてくれる。それは図らずしも、古来からあらゆる芸術の根幹に必要とされてきたものである。
    『反転したネガの残像』 を詳しく ≫
  • 若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。

    大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。
    では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。
    メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。

    私は、若者が書いたラブソングだと思う。
    恋愛は普遍的だ。
    だからこそ、その切り取り方に時代が見え隠れする。


    例えばSHISHAMOの『君と夏フェス』。夏フェスが社交の場として定着した今だからこそ歌になるラブソングだ。昔ならそれはビーチだったかもしれないし、映画館だったかもしれないし、ディスコだったかもしれない。


    My Hair is Badの『恋人ができたんだ』は、男性目線の歌だ。
    新しい恋人ができたことで、以前の恋人を思い出す歌。

    いかにも女々しく、色恋が世界のすべてでいられる年頃の青臭さを感じる。
    私自身が個人的に共感できるかと言えば、正直Noだ。
    大人の男になってしまった青年はもう、過去の恋愛をこれほどまでにウェットに振り返れない。美化こそすれど。

    過去に対してウェットになれるのは若者の特権だ。それは、過去を感傷の対象ではなく、情熱の対象として見ることができている証拠である。なぜそれができるかと言えば、若者はそもそも抱えている過去の絶対量が少なく(故に過去自体に神秘性があり)、その上過去といえども精々、二三年前程度のものだからだ。

    『恋人ができたんだ』において同時代性を感じるために、もうひとつのポイントに着目する。別れた後の恋人、という概念の新しい解釈だ。

    いまの若者の恋愛の主戦場は間違いなく、LINE、Twitter、Instagram、FaceBookなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)である。SNSの本質はアーカイブ性と、公共性だ。結論から言えば、別れた恋人と連絡をとろうとしなくても、SNSを覗けば、元カレ・元カノのその後が見えてしまう。

    SNSは恋愛に新しい観点を持ち込む。自分を振った元カレがまだ自分をフォローしているのを知った上で、あえて落ち込んで見せることもあるだろう。逆に、他の男なんていくらでもいることを見てほしくて、遊んでいることを匂わせた写真をいつも以上にアップロードするかもしれない。切り替えたことを知ってほしくて、アイコンを変えることもあるだろう。シェアした音楽を深読みしてしまうかもしれない。沈黙することすらひとつのメッセージになってしまう。

    SNSは、別れた後の恋人たちをアーカイブし続けることで、恋愛に対して新しい角度でスポットライトを当ててしまった。『恋人ができたんだ』はこの時代に生まれた、そんな新しい恋愛の機微を切り取った、同時代性のあるラブソングである。

    この歌が椎木知仁の実体験にもとづいているかどうかは分からない。いやおそらくそうではないだろう。なぜならあまりにリアルだからだ。

    リアルで写実的な描写を持ち込んだ理由は、生活感を持ち込みたかったからだ。別れた恋人を想う歌、という平凡なテーマを、現代の若者の当たり前の生活感で描けば、それが新奇性のあるラブソングになる。椎木知仁はそんな風にして、平凡なテーマを新しいラブソングに仕上げるソングライターなのだと思う。
    『SNS時代のラブソング』 を詳しく ≫
line_banner
Connect(通常盤)
Connect(通常盤)
posted with amazlet at 17.04.16
田口淳之介
Universal Music =music= (2017-04-05)
売り上げランキング: 79,007
Audio Fashion(+1)(通常盤)
Audio Fashion(+1)(通常盤)
posted with amazlet at 17.04.16
赤西 仁
Go Good Records (2016-06-22)
売り上げランキング: 8,061
square
square
posted with amazlet at 17.04.16
INKT
Natural Ace Records (2017-05-03)
売り上げランキング: 39,903