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RANDOM MUSICランダムおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • ラストシーン

    いきものがかり

    私事ですが、父が『いきものがかり』を好きなようだ。 70年代に10代の大半をすごし、EAGLESの大ファンを自認する古き良きロックオヤジである父だが、根っこはミーハーな人間で、ここ十年弱は家族の誰よりもAKBに詳しい日々を過ごしている。けなげな女の子に騙されるタイプのようで、例によって吉岡聖恵の素朴な佇まいにやられた口だ。PVのストーリー、吉岡聖恵、ブレス、裏声、ストリングス、吉岡聖恵、練られた

  • めぐり逢えたら

    おとぎ話

    古い家具のようなギターの音色でドリーミーなアルペジオを組み立てる。 最後まで厚くならない音像に、盛り上がりに欠ける空虚なメロディが滑っていく。 独特な音楽は多々あれど、その独特さのベクトルにおいて有識者が認知できないような角度で『めぐり逢えたら』を繰り出すおとぎ話は、損極まりない。 新しいジャンルとの融合や、時代のアーキテクチャの有効活用は本当のところオリジナルでもなんでもない。進んでいる時

  • デストピア

    GLAY

    GLAYの記憶は小学三年生の頃まで遡る。 クラスメイトの女の子が大ファンだった。 KinKiKidsではどっち派?みたいなノリで、GLAYでは誰派?といった会話がクラスでなされていたのは彼女の影響だった。音楽なんてかけらも興味なかった私だから、それでも誰一人名前を覚えられなかった。そして、その子はその年に転校してしまうことになる。 私にとってGLAYは一度そこで終わる。 次は大

  • ロミオとシンデレラ 歌:小林幸子

    doriko feat.初音ミク

    熱い。 低音の艶、ビブラート、リズム感。これぞロックボーカリストの本懐。 思えば遠くへ来たもんだ。 dorikoも私も。そしてきっと小林幸子も。 dorikoは9年のキャリアを詰め込んだベスト盤をリリースした。 ボーカロイド創成期、私は大学生になった。 その頃よく聴いていたボカロPのひとりがdorikoであり、ニコニコ動画だけでなく、アルバム『unformed』を購入し

  • しゅっとこどっこい

    バンドじゃないもん!

    鈴木美早子は侮れない。 明るく愛嬌があって、媚びないけど隙があって壁がない。 ロックバンドの紅一点として、バンドを壊さないままメンバーをモチベートし躍進させるために生まれてきたかのような女性だと思う。 その意味ではみさこは本質的にアイドルではないかもしれない。 アイドルは一般的に、媚びるけど、隙がなくて、壁があるからだ。 そのみさこがバンドじゃないもん!をはじめたとき、私はまた彼

  • ハッピーエンド

    back number

    Mr.Children、コブクロ。 わかる。わかるよ、清水依与吏。 back numberが先達から非常に強い影響を受けているのがわかる。 いや、影響という言い方は間違っているかもしれない。 それは、遺伝に近い。 ハッピーエンドは、ドラマティックなバラードである。 他のback numberのバラードと同じように。 日本人好みのメロディライン、切ない恋心の歌詞。 ストリング

  • ラバーソウル

    GRAND FAMILY ORCHESTRA

    太っちょのドラマーがいるバンドってもうそれだけで雰囲気良いよね。 太っちょのキャッチャーがいる野球部みたいなもんでさ。 ダンサンブルでアッパーな流行りのロックかと思いきや、スパイスのような哀愁が良い曲。 コーラスはどこかヨーロピアンでレトロ。あえて、ミクスチャーロックのタグをつけさせてもらった。 構成は意外とシンプルかつ挑戦的。『リンダリンダ』の如きロンド形式。冒頭のリフレイン

RANDOM REVIEWランダムレビューから音楽をみつける

  • 平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。

    平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へのユニークなアプローチだろう。

    『ソレデモシタイ』は、そのタイトルを見た瞬間からして、彼のソッチ方面のアレが来たな!と悟ったものだ。

    Jポップにおいて、性の隠喩や直喩はもはや珍しいものではない。それは表現の自由という意味では喜ばしい状況だが、一方で、性について描かれてしまったときの違和感や、背徳感、ドキドキ感に全くアプローチできていない、カタチだけの過激な歌詞も多く存在する。

    その有象無象置き去りにするようにして、平井堅のエロティックは、むしろキャリアを重ねるごとに尖っていっているように私は感じる。丸くなったなと思った頃に、読めないことを仕掛けてくる。十年強、見るともなしに邦楽チャートに張り付いていた私にとって、平井堅はそういう男だ。

    平井堅のエロティックが凡百のソレとは異なる理由は、関心の矛先が微妙に違うからである。『ソレデモシタイ』の歌詞を見てみよう。


    "あなたは決して使わないのよ アタシの好きなボディーソープを
    シャワーでさらっと流すだけなの アタシを持ち帰らない為に"


    "無味無臭で ただいまって 正しい愛を抱きしめるのね
    減らないのよ ボディーソープ アタシの心が減ってくだけ"


    これは不倫の歌だ。語り手の"アタシ"の家に男は来ている。男には家庭があり、不倫相手の"アタシ"よりも家庭を大切にする。なぜなら、ボディーソープを使って違う匂いを身にまとうことすら注意深く避けるからだ。男は"どっかで冷やかで自信家な男"であり、冷静にリスクを回避する。冷静であるということは、"アタシ"に溺れていないということだ。

    平井堅楽曲のエロスは、過激さの意匠でも、欲望と正対する文学でもない。雰囲気である。

    『ソレデモシタイ』においても、むんむんと立ち上るリアルかつフィクショナルな雰囲気こそが、映画のワンシーンのようにリスナーにまとわりつき、ジェントルでスマートな楽曲にざらついた手触りを導入している。逆に言えば、そこには雰囲気しかない。性のよろこびでもかなしみでも開放でも抑圧でも現実でも理想でもなく、雰囲気。性の存在する雰囲気。これが平井堅の圧倒的な個性であり、稀有な魅力だ。

    それが雰囲気だからこそ、そこには多様な引き出しがあり、気付かされることが多い。性の雰囲気は無限だし、男女のシチュエーションは無限だからだ。安心して聴ける面もある。雰囲気とは性、それ自体ではないからだ。


    それでは、そのユニークな歌詞世界はどこからくるのか。
    この問に本気で踏み込むなら、彼自身のセクシュアリティを研究しようとしなければならないだろう。しかしそれは無理な話だ。今回は、作詞家としての平井堅は、彼の内面から誕生したものではなく、彼の音楽家としての資質とボーカリストとしての資質が先立つカタチで、後天的に導かれたものだという説を唱えたい。

    どういうことか。
    作曲家、アイデアマンとしての平井堅は比較的スマートに闘う。彼にとって、狙ったダサさはOKでも、必死なダサさはNGだ。遊び心を差し引いても、バックトラックの完成度は常に高水準を維持している。いじわるに言えば、美しいだけの音楽をつくるのはお手の物だというわけだ。しかし、アーティスト平井堅はそれだけじゃダメだということを知っていた。出来杉君は主人公になれない。だから何らかの方法で隙を見せ、人間臭さを出す必要があった。完成した楽曲の調和を崩す役割を担わせるために、その独特な歌詞世界を平井堅は生み出した。それは戦略であり、バランスだった。以上仮説その一。

    エロティックなアプローチの中でも、とりわけ雰囲気、シチュエーションを重視するその嗜好は、自分自身の声に触発され続けることで形成されたものなのではないかと考えてみたい。平井堅の声には色気がある。いわゆる美声というやつだ。第二次性徴期において、身体の変化とアイデンティティの形成が不可分であるように、自分の身体や自分の声から、平井堅が表現としてのエロスを感じ取ったとしたら。もちろん単純化するつもりはない。しかしその独特な性へのアプローチにバックグラウンドを見出すとしたら、私は彼自身の声が先だったのだと考えてみたいのだ。もちろん、声が持つ色気と自己イメージには当初はギャップがあったかもしれない。とはいえ、アーティストにとってはその不調和すらも作家性へと昇華する対象となる。女性視点の作詞という武器も、そのひとつの帰結かもしれない。
    そして表現を重ねる過程で、性という武器をあらためて内面化し、意識的に使いこなしていく。さらにはその武器は本人が思った以上に探求のしがいがあり、需要のあるものであった。以上が仮説その二だ。
    念を入れる必要はないかもしれないが、これはあくまで妄想である。


    最後に、作曲はDivine Brown, Aileen De La Cruz, Adam Royceというクレジットになっている。本人の手がけた曲ではなく、コンペで選ばれたという。これがまた良い。

    PV?
    インドの話はいまさらするまでもないだろう。
    『性へのユニークなアプローチの源泉』 を詳しく ≫
  • つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。
    このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。

    リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。
    なんてダーティーなんだろう。
    単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。
    そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。
    その両方に火炎放射を浴びせて焚き付けるようにのたうち回るギター。

    バックトラックだけを聴けば、ビジュアルイメージさえも、ウルフルズのパブリックイメージとは違う、ダーティーで硬派なルックスが浮かび上がってくるはずだ。

    バンドにとって、ボーカルが花だとすれば、楽器隊はさしずめ花瓶である。仮に花を取り外して、花瓶としての美しさ、かっこよさ、丈夫さを評価してみれば、世のバンド界隈には、いまと全く違った素敵な世界が広がっているかもしれない。ウルフルケイスケ、ジョン・B、サンコンJr.がつくる模様のないタイトな花瓶は、そんな可能性を妄想させてくれる。

    さて、そんな最高の花瓶に生けられているにも関わらず、すべてを持っていってしまうトータス松本には何があるのか。

    ひとつ提案したいのは、ボーカリスト俳優説だ。
    古今東西、ロックバンドのボーカリストが、一定のキャリアを積んだ上で俳優業を掛け持つ例が後を絶たない。トータス松本も然り。無論、楽器隊より人気が出やすいこと、ソングライターであれば俳優業にも通じるクリエイティビティを潜在する場合が多いことなどの条件もあるが、そもそもボーカルとは喋るパフォーマーであることを忘れてはならない。つまるところ、技術的にボーカルと俳優は近似しているのだ。

    トータス松本は、喋るパフォーマーとしての俳優力が高い。
    演劇の世界では、小道具大道具を用意せず、あえて喋りのみで情景描写や世界観を表現するスタイルが一般的に存在する。それは演技の持つ可能性を最大限に楽しめる、まさに演劇の真骨頂だ。その空間では、言葉とアクションだけで場のすべてを持っていく使命が俳優に課されている。

    ある種のボーカリストの持つ驚異的な空間掌握力はその使命の達成に近い。
    声が良い。顔が派手。しなやかな身体。個別の要素を挙げればいくらでも褒められる。しかし、俳優が観客に情景を見せるために注ぎ込まれるエネルギーは、決して個別の要素の能力値では測れない。
    文字通り前身をフルに駆使する。セリフのピッチは勿論のこと、瞬きひとつ繊細に研ぎ澄まされた、総合芸術だ。

    ボーカリストは総合芸術である。そしてトータス松本は歌のうまい花ではなく、最高の花瓶に刺さった最高の俳優だ。"スポーティパーティ"のリフレインと対になるBメロの、アドリブのように不定形で切迫したボーカルワークを聴けばその怪演に胸を打たれずにはいられない。
    『最高の花瓶とボーカリスト俳優説』 を詳しく ≫
  • 両親や二つ下の弟、中学や高校時代を共にした友人たちが、私が離れたあともずっとあの町でくらし続けていることを思うと不思議な感慨がある。

    KOHHを聴いて、弟に聴かせたいと思った。
    都会に憧れて18で上京した私とちがって、弟は地元の仲間や地元の店を愛し、そこで暮らし続けている。彼ならきっと、「結局地元」と発するKOHHのパフォーマンスが、開き直りでも諦めでもなく、むしろラディカルで本質的なものだと読み取れるだろう。

    私も弟も、ラディカルな考え方が好きだ。
    それは二人ともロックから学んだものだと思う。
    とはいえ、二人の人生は全く異なる道を歩んでいる。


    "海外とか行ってみても楽しいのは結局地元"


    とKOHHは言う。私は東京に出ただけでなく、「海外とか行ってみる」ことがとても好きだ。最も好きなことのひとつと言って良い。弟はそんなことよりも、仲間と田舎の廃屋を貸し切ってクラブイベントを開催するようなやつだ。そこは覇気のない田舎町にも関わらず、面白いことの好きな享楽的な若者たちはどこからともなく集まってくるようだ。深く太い地元のアンダーグラウンドネットワークは、地上の世界で生活していた高校生の私には全く見えないものだった。

    KOHHは、私たち兄弟のハイブリッドと言える。そしてその両方の価値観を、客観的に見つめる頭の良さを持っている。


    "オラオラ系のあいつがやってるのは黒い仕事"


    こういった身内の相対化が適宜リリックに挟まれる。だからKOHHのMCには説得力がある。客観化し相対化してもなお、発信することを選んだメッセージだとわかるからだ。そしてその選択には歴とした同時代性があると私は感じる。同時代性という言葉を言い換えれば、今の時代に即しており現状への批評的な観点を持っている、ということだ。つまりラディカルなのである。地元を離れた私と、地元に残った弟、双方の人生に批評的に突き刺さる普遍性をKOHHのMCは持っている。

    KOHHはあらゆる面でラディカルだ。
    例えば、公式ホームページに着目したい。
    KOHHは国内用と海外用、二つの公式ホームページを持っている。国内用のドメインは『やばいっす.com』。海外用には別ドメインを切っている。『kohh.tokyo』だ。世界的には.comの方が普遍的であるのも関わらず、あえて.tokyoのドメインを利用する戦略がとても上手い。内容においても、ただ英訳するだけでなく、見せ方、構成を完全に変えている。

    尖っているもの、アナーキーなものに触れたときに湧いてくる勇気。
    本当に進むべき方向を向くことができれば、そこは全くもって希望に満ちているのだという啓発。人類史が続く限り、継承されてきた啓発。それはもはや啓発ではなく、生物学的な習性と言っても良いかもしれない。しかし私たちは、それを必ず忘れてしまう習性も同時にそなえている。だからいつの時代もだれかが人々にそれを思い出させてきた。その煽動者をこそ、私たちはアーティストと呼ぶべきだ。現代においてその役目はKOHHと、もしかしたらヒップホップが担っているのかもしれない。
    『弟に聴かせたいと思った』 を詳しく ≫
  • ORANGE RANGEは若い。
    2017年現在メンバーはまだ30代前半。
    いいなあ、楽しそうだなあ。
    Twitterのノリが中学生だもん。

    HIROKIのアイコンはチワワだ。
    自己紹介の文章は「日々、透明人間になれるよう猛特訓の日々。」

    NAOTOの位置情報は「naotohiroyamanaotohiroyama」で、自己紹介は「naotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyamanaotohiroyama」。

    RYOは四年更新が止まっているが、自己紹介が「ひげが生えてます。。」。
    面白さの競い方が完全に男子中学生。

    音楽もめっちゃ楽しそう。
    『SUSHI食べたい feat. ソイソース』は狙い通り話題を呼んでいる。
    基本楽しい人達だから、ユーモアも根がハッピーなのだと思う。
    最近の若手バンドでもユーモラスな歌詞が売りとするバンドはいる。彼らがオレンジレンジには及ばないことを私はこの曲で再認識した。


    ユーモアにもいろいろある。その中でもネット由来の卑屈なコメディが今の日本では幅を利かせている。それは2chで生まれTwitterでネット全土に広まった。
    若手バンドのユーモアはソレなのだ。所詮は文化系。

    オレンジレンジは違う。こいつらは沖縄からきた本物のパリピだ。彼らはガチで人生をenjoyしており日々仲間と笑って仲間を笑わせて生きている。


    "サーモン大好きオンナ
    唐揚げくうなよオトコ"


    筋金入りの本物のユーモアだ。
    沖縄は音楽の街だ。地元を愛し、地元で生活しながら全国区の人気を誇るアーティストがたくさんいる。オレンジレンジもそのひとつだ。

    オレンジレンジを考えるとき、仲間と遊ぶ楽しさというプリミティブな天国に、一番近い場所としての沖縄を考える。その場所の力が沖縄のインディーシーンをユニークに醸成しているように思えてならない。とにかく彼らは楽しそうにみえる。自分たちの遊び場で自分たちの遊びができているようにみえる。時々、何かの化学反応で広い世界と彼らの音楽が交信する。ヒットする。

    それは関東に住む私にとって、ありがちなユートピア幻想なのだろうか。
    しかし、そんな簡単なことすらできないから私たちはインターネットに時間を割いてしまうのであり、そこでの笑いの作法なんてのを身につけてしまう。

    バンドの本質は、仲間と遊ぶことだ。
    仲間と遊ぶことに真正面から向き合ってきた人たちと街の、音楽が強靭なのは、理にかなっている。


    歌詞に白けない要因は他にもある。サウンドだ。
    意外と音数が少ないことに注目したい。
    スタッカートを活かした単音のシンセリフや捻ったスネアが控えめに引っ張る。ワサビのようだ。
    スムーズな展開もコードに頼らずひっそりと繋ぐ。
    バンドはコミックソングをつくるとき、サウンド面においてはヤケクソにテンコ盛りにしがちだ。ここには一日の長がくっきりと出る。
    オレンジレンジが冷静なサウンドメイクで高い完成度を目指せたのも、やりたいことをやってきた実績と自信があるからだ。


    ブレイクしシーンの頂点に立った頃、彼らはまだハタチに毛が生えた程度の年齢だったわけだ。ヤンチャな感じが敵を作ったが、いまはみんないい男になった。仲間と遊ぶことに真正面から向き合ってきた男はいい男になる。いい男のいい音楽を育てたのは沖縄のその街なのだと思う。
    『パリピのユーモアと沖縄のその街』 を詳しく ≫

NEW MUSIC最新のおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • ソレデモシタイ

    平井 堅

    平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。 平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へ

  • Nipponia Nippon

    SALU

    ナショナリズムってのはいつの時代も問題だと思うけれど、ここ最近はとくに悪い意味での存在感を増している。日本という国の素晴らしさを日本人に向けてアピールする人や、コンテンツ、メディアが増えた。そのどれもが、見ているこっちが恥ずかしいほど幼稚な内容にも関わらず、確かにそれに癒され、勇気づけられている人たちがいる。政治や経済での機能を除いて、国家というものがなぜ必要なのか、という問いに答えるのは難しい。

  • 俺たちのサマーゲーム

    frAgile -フラジール-

    フラジール。国産オルタナティブ歌謡ロックバンド。 歌謡テイストを掲げるロックバンドは多い。むしろ、日本のロックの歴史はいかに歌謡曲に陥らないかという試みの中でつくられた、と言っても良いくらい歌謡テイストは日本のロックバンドが自ずと持ち得ているものである。歌謡曲は多くの日本人ロッカーにとって、ロックに目覚める前に耳に馴染んだ忘れたい過去であり、小さなコンプレックスだった。あるいは逃れられない宿

  • オーライオーライ

    呂布カルマ

    "小さい頃は 神様がいて   不思議に夢を かなえてくれた" "小さい頃は 神様がいて   毎日愛を 届けてくれた" (やさしさに包まれたなら) 荒井由実の歌った神様は小さい頃にだけ存在する。 夢をかなえ、愛を届ける神様だ。 荒井由実の歌った神様は何のために存在するのだろうか。それは私たちが、夢をかなえ、愛を届ける存在であることを、人生の始まりの子供時代に学ぶためだ。私たち

  • さよならスカイライン

    ラッキーオールドサン

    圧倒的に聴きやすいのに圧倒的に独自性に満ちている。 あなたが古き良き温かい時代に生まれずに、絶望ばかりのこんな時代に生きていることを恨んでいるのなら、 あるいは、 失われた青春時代の自分から、今の自分はどうしてここまでかけ離れてしまったのかと嘆いているのなら、 あなたが聴くべき音楽は、 あなたにとっての懐メロではなく、 ラッキーオールドサンだ。 ラッキ

  • スポーティパーティ

    ウルフルズ

    つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。 このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。 リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。 なんてダーティーなんだろう。 単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。 そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。 そ

  • Connect

    田口 淳之介

    田口淳之介は精悍になった。 KAT-TUN全盛期の頃は、ワイルドなグループにおいて、ブラウンのロングヘアーがナチュラルにカールしている、甘い微笑みの優男という印象だった。 『Connect』のMVでダンスする田口淳之介と、公式ホームページのビジュアルイメージは統一されていて、ともにこれ以上さっぱりしようがないくらいにさっぱりした男になっている。 無駄なものが削ぎ落とされたかっこよ

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  • 平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。

    平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へのユニークなアプローチだろう。

    『ソレデモシタイ』は、そのタイトルを見た瞬間からして、彼のソッチ方面のアレが来たな!と悟ったものだ。

    Jポップにおいて、性の隠喩や直喩はもはや珍しいものではない。それは表現の自由という意味では喜ばしい状況だが、一方で、性について描かれてしまったときの違和感や、背徳感、ドキドキ感に全くアプローチできていない、カタチだけの過激な歌詞も多く存在する。

    その有象無象置き去りにするようにして、平井堅のエロティックは、むしろキャリアを重ねるごとに尖っていっているように私は感じる。丸くなったなと思った頃に、読めないことを仕掛けてくる。十年強、見るともなしに邦楽チャートに張り付いていた私にとって、平井堅はそういう男だ。

    平井堅のエロティックが凡百のソレとは異なる理由は、関心の矛先が微妙に違うからである。『ソレデモシタイ』の歌詞を見てみよう。


    "あなたは決して使わないのよ アタシの好きなボディーソープを
    シャワーでさらっと流すだけなの アタシを持ち帰らない為に"


    "無味無臭で ただいまって 正しい愛を抱きしめるのね
    減らないのよ ボディーソープ アタシの心が減ってくだけ"


    これは不倫の歌だ。語り手の"アタシ"の家に男は来ている。男には家庭があり、不倫相手の"アタシ"よりも家庭を大切にする。なぜなら、ボディーソープを使って違う匂いを身にまとうことすら注意深く避けるからだ。男は"どっかで冷やかで自信家な男"であり、冷静にリスクを回避する。冷静であるということは、"アタシ"に溺れていないということだ。

    平井堅楽曲のエロスは、過激さの意匠でも、欲望と正対する文学でもない。雰囲気である。

    『ソレデモシタイ』においても、むんむんと立ち上るリアルかつフィクショナルな雰囲気こそが、映画のワンシーンのようにリスナーにまとわりつき、ジェントルでスマートな楽曲にざらついた手触りを導入している。逆に言えば、そこには雰囲気しかない。性のよろこびでもかなしみでも開放でも抑圧でも現実でも理想でもなく、雰囲気。性の存在する雰囲気。これが平井堅の圧倒的な個性であり、稀有な魅力だ。

    それが雰囲気だからこそ、そこには多様な引き出しがあり、気付かされることが多い。性の雰囲気は無限だし、男女のシチュエーションは無限だからだ。安心して聴ける面もある。雰囲気とは性、それ自体ではないからだ。


    それでは、そのユニークな歌詞世界はどこからくるのか。
    この問に本気で踏み込むなら、彼自身のセクシュアリティを研究しようとしなければならないだろう。しかしそれは無理な話だ。今回は、作詞家としての平井堅は、彼の内面から誕生したものではなく、彼の音楽家としての資質とボーカリストとしての資質が先立つカタチで、後天的に導かれたものだという説を唱えたい。

    どういうことか。
    作曲家、アイデアマンとしての平井堅は比較的スマートに闘う。彼にとって、狙ったダサさはOKでも、必死なダサさはNGだ。遊び心を差し引いても、バックトラックの完成度は常に高水準を維持している。いじわるに言えば、美しいだけの音楽をつくるのはお手の物だというわけだ。しかし、アーティスト平井堅はそれだけじゃダメだということを知っていた。出来杉君は主人公になれない。だから何らかの方法で隙を見せ、人間臭さを出す必要があった。完成した楽曲の調和を崩す役割を担わせるために、その独特な歌詞世界を平井堅は生み出した。それは戦略であり、バランスだった。以上仮説その一。

    エロティックなアプローチの中でも、とりわけ雰囲気、シチュエーションを重視するその嗜好は、自分自身の声に触発され続けることで形成されたものなのではないかと考えてみたい。平井堅の声には色気がある。いわゆる美声というやつだ。第二次性徴期において、身体の変化とアイデンティティの形成が不可分であるように、自分の身体や自分の声から、平井堅が表現としてのエロスを感じ取ったとしたら。もちろん単純化するつもりはない。しかしその独特な性へのアプローチにバックグラウンドを見出すとしたら、私は彼自身の声が先だったのだと考えてみたいのだ。もちろん、声が持つ色気と自己イメージには当初はギャップがあったかもしれない。とはいえ、アーティストにとってはその不調和すらも作家性へと昇華する対象となる。女性視点の作詞という武器も、そのひとつの帰結かもしれない。
    そして表現を重ねる過程で、性という武器をあらためて内面化し、意識的に使いこなしていく。さらにはその武器は本人が思った以上に探求のしがいがあり、需要のあるものであった。以上が仮説その二だ。
    念を入れる必要はないかもしれないが、これはあくまで妄想である。


    最後に、作曲はDivine Brown, Aileen De La Cruz, Adam Royceというクレジットになっている。本人の手がけた曲ではなく、コンペで選ばれたという。これがまた良い。

    PV?
    インドの話はいまさらするまでもないだろう。
    『性へのユニークなアプローチの源泉』 を詳しく ≫
  • ナショナリズムってのはいつの時代も問題だと思うけれど、ここ最近はとくに悪い意味での存在感を増している。日本という国の素晴らしさを日本人に向けてアピールする人や、コンテンツ、メディアが増えた。そのどれもが、見ているこっちが恥ずかしいほど幼稚な内容にも関わらず、確かにそれに癒され、勇気づけられている人たちがいる。政治や経済での機能を除いて、国家というものがなぜ必要なのか、という問いに答えるのは難しい。それはとても難しい。しかし、そこにひとつのヒントを与えてくれるのは、上述のように癒やしや勇気を必要としている人が事実存在しているということだ。彼らにとって、生まれついた国家、あるいは民族が肯定されることは、最も手っ取り早く、最も信頼の置ける己の肯定なのだ。

    SALUは、ヒップホップ界においてとりわけ明るく爽やかな曲調が印象的だ。中性的なルックスや、かわいらしい声も光っている。魂を揺さぶる男らしいメッセージとそれを裏付ける荒くれた生き方をある意味では運命づけられるヒップホップの世界で、クン付けで呼ばれることに何の違和感もないラッパーはSALUくらいではなかろうか。

    しかしながら、SALUが人畜無害で大衆的なアーティストでないことはその曲を聴けばわかる。そのラッパー魂が最も溢れ出たのがこの『Nipponia Nippon』だろう。

    この曲は通り一遍の反社会的な音楽とは一線を画している。リリックが巧みである背景には、次のようなSALUの冷静な現況認識がある。


    "たまに本当に心配だよ日本
    いいんだけど"


    "わかってる 本当に複雑だってこと"


    "やりたいことだけやりたいとかそれ本気?
    状況を変えようともがいてる若者を
    裏がどうのゆとりがどうのと叩こうと
    こういうことを言えばまた政治的
    宗教的とか言われてももういいからすぐにやろうよ"


    Noを突きつけるのではなく、"心配"をする。そして"いいんだけど"と捉え直し、あくまで自分の実存と日本の心配に繋がりはないことを確認する。この態度は上述ような、勇気や癒やしを国に求めてしまうナショナリストとは対極の知的で冷静な態度だ。そして"本当に複雑だってこと"をしっかりと"わかってる"。威勢良く格好をつけて毒を吐いているんじゃない。それがSALUだ。

    他方で、"やりたいことだけやりたい"という一見ラジカルで本質的な態度にも、疑いの目を向ける。この問いかけはリスキーだ。なぜなら、"政治的 宗教的"と言われてしまうから。事実そういう目的で個人主義から全体主義へ煽動するアジテーターも存在する。SALUはそういうこともよく分かっている。

    こうしてリリックを見て分かるように、複数の立場、複数のイデオロギーを横断した上で、SALUの反社会的なメッセージは紡がれている。

    今敢えて日本について歌うことは、それ自体も非常にリスキーである。安易な応援歌と受け取られるリスクも、安易な社会批判と受け取られるリスクもある。軽やかな自由さがウリだったSALUにとってはアーティストとしてのイメージを損なうリスクもあった。それでもあらゆる立場をクールに見渡して、優しく、厳しく、"心配だよ"と心地良いラップにしたこの曲を私は真にラジカルで魅力的だと思う。


    最後にもう一つリリックを見てみよう。


    "俺には幸いこの声がある
    このラップがある"


    "俺には幸い
    会ったことのない同士がいる"


    "君には幸い俺がいる"


    ここで、SALUは"幸い"を歌っている。SALUが自己の実存の問題に揺さぶられず、冷静に社会を直視しラップにできる理由は、SALUには"幸い"があるからだ。

    ナショナリストは自国を肯定されることで、己の肯定を手に入れた。SALUを肯定するのは、"声"と"ラップ"と"同士"だ。そして私たちにはSALUがいるから、SALUのラップで己を肯定し"状況を変えようともがいて"みることができる。さすれば国には何も求めない強さを持ちながら、それでも国に働きかけ、国を変えることができるかもれない。
    『日本を心配するラップの心地良さ』 を詳しく ≫
  • フラジール。国産オルタナティブ歌謡ロックバンド。

    歌謡テイストを掲げるロックバンドは多い。むしろ、日本のロックの歴史はいかに歌謡曲に陥らないかという試みの中でつくられた、と言っても良いくらい歌謡テイストは日本のロックバンドが自ずと持ち得ているものである。歌謡曲は多くの日本人ロッカーにとって、ロックに目覚める前に耳に馴染んだ忘れたい過去であり、小さなコンプレックスだった。あるいは逃れられない宿命だった。ブルースの下地がなかったこの国は、その宿命との闘争を経て、ロックを獲得するに至るユニークな歴史をつくった。

    ニューミュージックと言われるムーブメントが、紅白歌合戦へのアンチテーゼを掲げる一方で、多分に歌謡曲の影響を受けていた。ビートルズやボブ・ディランに影響を受けたというアーティストが、英米文化圏で先達が築いた価値観とは真逆の日本の芸能界で、テレビ局で、活躍し続けた。

    やがてその矛盾に多くの後続が気づくことになる。
    彼らは次第に、歌謡・芸能文化へ迎合しないオルタナティブな音楽性や活動スタンスと、商業的成功を両立することを目指すようになる。

    その末裔のひとつに、邦楽ロック、ギターロックというジャンルがある。
    邦楽ロックというジャンルを語るときにロッキンオンジャパンという雑誌を無視することはできない。というのも私は、上述の矛盾を解消するために、あるいは、表面上は解消されたように見せるために最も貢献したのは、どのバンドでもなく他ならぬロッキンオンジャパンだと思っている。そしてその矛盾を解消する試みは未だに続いており、そして彼らは今最も苦しんでいる。

    分かる人はこれだけで分かると思う。ロッキンオンジャパンについてはまた別の機会で掘り下げるとして、ひとつピックアップしておきたいのが、矛盾解消にはいくつかの手法があり、ロッキンオンジャパンが試みたのはそのひとつであるということだ。そしてフラジールはまた別の手法を試みている。

    ロッキンオンジャパンの試みは要するに、そのバンドにオルタナティブな文脈を付与することである。その試みは、バンドが如何なる様相を呈していようとも関係ない。なぜなら雑誌の存在意義がオルタナティブであることであり、また長いテキストの読み応えが必要とされているからだ。ちなみにインタビューという手法はその際非常に便利だ。メンバーから語られるパーソナルなヒストリーは、本質的にパブリックな大衆へのオルタナティブだからである。

    閑話休題。上述の矛盾を解消するためのフラジールの試みは、オルタナティブであることを証明し続けるロッキンオンジャパン的なものではなく、私たちは歌謡曲が好きなんです、みんな歌謡曲好きだよね、という開き直りだ。

    さて、歌謡曲の再評価など、今の時代すでに当たり前だと指摘することもできるだろう。問題は、ロッキンオンジャパン誌上で歌謡曲が好きだと発言しカノン進行で甘いメロディのシングル曲を書く事が歌謡曲の再評価ではない、という点である。

    非常に個人的な定義をここで持ち出そう。それは、ロックにはアティチュードがあり、歌謡曲にはアティチュードがない、という定義だ。これは優劣の話ではない。楽曲の良し悪しにアティチュードは関係ない。

    アティチュードのない芸術は何を愛するか。それはB級であることである。
    『俺たちのサマーゲーム』を聴いて私が最初に思ったことは、サザンオールスターズが本当にやりたかったことはこういうことだったのではないか、というひとつの感慨である。それは感慨である。ロックの音と、歌謡曲の哀愁、お茶目なケレン味、そのミックスによる胸の高鳴り。『俺たちのサマーゲーム』には、サザンオールスターズの長い夢がひっそり実現されていたという不思議な結末感がある。あまりに安っぽく、それ故にファンキー。テロテロなギターソロ。すっとぼけたアンサンブル。

    『俺たちのサマーゲーム』は、歌謡曲の哀愁を特にフィーチャーするフラジールにしてはからっとしたナンバーだが、アティチュードから自由であるという意味で、真にB級である。

    私たちは成長することでアティチュードを手に入れていく。しかし、それは人生を支配しない。人生を支配するのは、食事やトイレや掃除や洗濯や睡眠や家族や友達や恋愛だ。それはアティチュードの及ばない欲望であり、生活だ。その重要度を取り違えると私たちはアティチュードの自家中毒に陥る。アティチュードは、思想、夢、目標、文学と言い換えても良いかもしれない。B級芸術、歌謡曲、フラジールは、アティチュードから自由である故にほんとうの意味での人生を切り取る。

    『俺達のサマーゲーム』の歌詞に象徴的な一節がある。


    "胸騒ぎ 渚に寝そべる loco girl
    case by case game"


    このゲームは、ケースバイケースなのだ。
    一方で、桑田佳祐は『TSUNAMI』で次のように歌った。


    "人は誰も愛求めて 闇に彷徨う運命
    そして風まかせ Oh,My Destiny"


    桑田佳祐が国民的ロックバンドとしてベタに、シリアスに大成功した背景には、恋を「運命 = Destiny」と歌ったことにあるのかもしれない。もしウシジマタクロヲのようにおちゃらけて、「ケースバイケース」と歌っていたら。

    B級歌謡ロックバンド、サザンオールスターズはもう一つの夢を叶えたかもしれない。
    『歌謡曲とロッキンオンとサザンの夢』 を詳しく ≫
  • "小さい頃は 神様がいて
      不思議に夢を かなえてくれた"

    "小さい頃は 神様がいて
      毎日愛を 届けてくれた" (やさしさに包まれたなら)


    荒井由実の歌った神様は小さい頃にだけ存在する。
    夢をかなえ、愛を届ける神様だ。
    荒井由実の歌った神様は何のために存在するのだろうか。それは私たちが、夢をかなえ、愛を届ける存在であることを、人生の始まりの子供時代に学ぶためだ。私たちはその教えを胸に、神様がいなくなったあとの人生を渡ってゆく。あたかも神様が、私たちに80年効く魔法をかけて去って行く存在であるかのように。



    それでは呂布カルマにとっての神様とはなんだろうか。
    このような問いを立てるのも、『オーライオーライ』ではユーミンに負けず劣らず、神様という単語が印象的に使用されているからだ。


    "神様が僕にだけ秘密で教えてくれた呪文
    世界中の人が幸せになる代わりに歌うことがなくなるよう

    神様が僕にだけ秘密で教えてくれた呪文
    世界中の涙が笑顔になるがしかし芸術はくたばるよう" (オーライオーライ)


    フックにあたるこのリリックでは、"世界中の人が幸せ"で、"世界中の涙が笑顔になる"世界を理念として掲げていることがわかる。神様はそれを叶える呪文を知っており、その呪文を呂布カルマが授かったというストーリーが描かれる。

    呂布カルマが授かる呪文なのだからそれはヒップホップだろう。
    ここでの主たる主張は、以下の三点にまとめられる。


    1.選ばれし者としての呂布カルマ
    2.呪文 = ヒップホップが世界を幸せに導くという理念
    3.そして理念が成就した暁には芸術はくたばり、歌うことはなくなり、すなわちヒップホップがくたばるという歴史観


    ここには驚くべき、宗教との相似がある。一般に宗教は、幸福の理念を持ち(2)、その実現のための歴史を持ち(3)、それを広めるための使徒(1)を持つからだ。

    ここで述べたいのは、呂布カルマが特定の宗教を信仰しているという話ではない。期せずしてその構図が似てしまっているという点だ。



    紐解こう。
    キーワードはやはり神様である。
    クライマックスのフックを引用する。


    "すれ違う瞬間に何か見た
    神様と目が合って理解した

    全部わかった" (オーライオーライ)


    不気味なほどの全能感であるが、実は先程のリリックとは大きな違いがある。それは、呂布カルマ個人の、プライベートな"理解"に比重が置かれている点だ。加えて、"すれ違う"という言葉が、呂布カルマが街中を歩き回るだけのMVと親和し、その宗教的体験が日常に潜むものであることをリスナーは唐突に知らされる。要するに、ヒップホップで世界を幸せにする壮大な歴史だったはずが、個人としてすべてを理解し何かを悟ることへと、劇的にスケールダウンされている。

    その劇的なスケールダウンが、安易な着地点として位置づけられず、むしろこの曲の不気味さを際立たせていることに注目する必要がある。

    これはおそらく多分にテクニカルな手法である。トラックの良さやリリック全体の刷り込みも効いている。もちろんパフォーマンスもある。しかし決定打は、世界への使命を負った使徒である呂布カルマから、自分への使命を負った個人としての呂布カルマへのモードチェンジである。このモードチェンジが上記のスケールダウンに内在されている。そのスケールダウン、落とし込みを目の当たりにし、リスナーはあたかも世界全体を幸福にするという宗教的なストーリーが呂布カルマ個人へと落とし込まれたかのような錯覚を覚え、凄みとともに不気味さを感じるのである。

    ここでは神様の位置づけも変わっている。使徒に呪文を授け、遣わす支配的な存在から、日常のストリートに潜み、すれ違いざまに"全部わか"らせる脱支配的な存在に変わっている。


    さて、ユーミンをもう一度思い出そう。
    ユーミンの神様は、『オーライオーライ』で呂布カルマが行ったアクロバティックなモードチェンジの、結論だけを切り取ったものと実は似ている。ユーミンの神様も、日常に潜み、個人へ気づきを与える、脱支配的な神様だからだ。

    そして『オーライオーライ』のすごさは、超越的で絶対的な幸福の理念と歴史の存在に今一度チャレンジしていることにある。それは永らく人類がチャレンジし続け、そして現代では諦められつつあることだ。

    そのチャレンジのために呂布カルマは、逆説的にユーミン風の現代的で脱支配的な神様を導入している。

    さきほどは、両者を繋ぐに際してモードチェンジと称したが、正確には違う。呂布カルマのモードはチェンジしていない。二つのモードは一曲の中に併存されているのだ。そしてその目的は、双方の強度を高め合うことにあり、それこそが詩人、呂布カルマの説得力の源泉である。
    『神様の存在 ユーミンとの比較』 を詳しく ≫
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