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  • 夢見る人

    さだまさし

    ドラマ主題歌として書き下ろしの曲。 線の細いフォーク歌手であった往年のイメージからすると、出だしから、重厚なストリングスとピアノの光沢にいささか面食らう。 AKB48の指原莉乃が自身の誕生日にディナーショーを開催して話題になった。さすがの彼女も当日はドレスアップしており、日本歌謡史のスタンダードナンバーを中心に据えたセットリストはディナーショーに相応しい、フォーマルな仕上がりだったようだ。

  • ロミオとシンデレラ 歌:小林幸子

    doriko feat.初音ミク

    熱い。 低音の艶、ビブラート、リズム感。これぞロックボーカリストの本懐。 思えば遠くへ来たもんだ。 dorikoも私も。そしてきっと小林幸子も。 dorikoは9年のキャリアを詰め込んだベスト盤をリリースした。 ボーカロイド創成期、私は大学生になった。 その頃よく聴いていたボカロPのひとりがdorikoであり、ニコニコ動画だけでなく、アルバム『unformed』を購入し

  • 8 BEATのシルエット

    布袋寅泰

    ロンドンでの数年間を経て、原点に戻ったかのようなオリエンタルなパワーポップ。きっかり8分音符のギラついた単音リフから始まり、ミュート、カッティング、歪んだオブリガードを駆使し、ソウルなコーラスで徐々に高まっていき、歌謡メロディのサビで開放。自由気ままにやった結果このポップな形になっているようであることが、なにより健康的でうらやましい。ギターソロではテンポチェンジなど一工夫凝らしているが、それもまた

  • 恐怖の大王

    人間椅子

    「日本語ロック」という言葉がある。 はっぴいえんどが開拓を進め、サザンオールスターズ、RCサクセション、ブルーハーツが各々の方法論で完成させたソレだ。 その言葉はいまでは廃れ、代わりに若い音楽ファンに親しまれているのは「邦楽ロック」だ。 日本でロックをやること。かつては、それ自体が事件であり挑戦だった。 いまはどうか。幸福なことに日本でロックは可能であることが証明されたと思う。それ

  • しゅっとこどっこい

    バンドじゃないもん!

    鈴木美早子は侮れない。 明るく愛嬌があって、媚びないけど隙があって壁がない。 ロックバンドの紅一点として、バンドを壊さないままメンバーをモチベートし躍進させるために生まれてきたかのような女性だと思う。 その意味ではみさこは本質的にアイドルではないかもしれない。 アイドルは一般的に、媚びるけど、隙がなくて、壁があるからだ。 そのみさこがバンドじゃないもん!をはじめたとき、私はまた彼

  • STAY YOUNG

    THE SENSATIONS

    インターネット上の「次はこのバンドがくる!」なんて記事はすべて面白くない。バラエティ番組では、面白い発言にテロップがつくのではなくテロップをつけることでそれが面白いことであると決まっていくように、若手バンドのフィーチャー記事の背後を辿れば、そのバンドが既に選ばれているという事実にブチ当たる。 次のバンドとして選ばれたバンドは、永久機関になったビリヤードのように玉突きと補充の対象になる。

  • BLINKSTONEの真実を

    BIGMAMA

    金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。 無理もない。この人は持てる者だ。 まず普通に顔が格好良い。 そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。 BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は

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  • 太っちょのドラマーがいるバンドってもうそれだけで雰囲気良いよね。
    太っちょのキャッチャーがいる野球部みたいなもんでさ。


    ダンサンブルでアッパーな流行りのロックかと思いきや、スパイスのような哀愁が良い曲。
    コーラスはどこかヨーロピアンでレトロ。あえて、ミクスチャーロックのタグをつけさせてもらった。

    構成は意外とシンプルかつ挑戦的。『リンダリンダ』の如きロンド形式。冒頭のリフレインで最後までグイグイ引っ張る。
    こういうのは自信か工夫、そのどっちかが無ければできない。


    曲を重層的に聴かせているのは間奏かしら。
    ファンキーだったり、ラウドだったり、メタリックだったり、そうとう遊んでるのだが聴けてしまう。
    背伸びで取り入れてるのではなく、各プレイヤーがアレンジャーとしてモノにできてるからこそだろう。

    そりゃそうだ、実はこのバンド、メンバーのキャリアはそれなりにある。
    ボーカルの松山晃太は『BYEE the ROUND』、ベースの千葉龍太郎は『新世界リチウム』、ドラムのピクミンは『ハヌマーン』というバンドで一定の実績を残している。

    3バンドの個性が合算されているかというと、そうではない。
    GRAND FAMILY ORCHESTRAはむしろ、3バンドの核をそっくりそのまま取り除き、そこに注がれた新しい血がギラついている。
    松山晃太と共にトリプルギターを構成する二人のギタリストだ。

    特に、バーテンダーのようにトラッドな眼鏡(森山良太)が、テレキャスのハイポジションにガッツリカポタストはめてつくる硬質なリードトーンは、曲の要求を満たして有り余る。
    松山晃太もこの男の使い所には困っているのではないか。

    他方、シルバーアッシュとグレッチの紅一点、江幡亜衣は、RPGゲームの中盤で仲間にできそうなルックスがすごい。
    それだけでバンドに興味持てるし、森山と松山だけではクドくなりがちな音作りに、レガシーな音色でスペースをつくる貢献度は高い。

    メンバーの前史となる3バンドは、特定のファン層に熱狂的に支持されたが、GRAND FAMILY ORCHESTRAは、ワンスケール広い顧客層を念頭に、大きく山を張っているのではないか。
    それゆえに、以前のバンドをこえられない可能性は十分にあると思う。
    しかし、そこは打って出てもらわなければこっちも面白くないわけで、皆さんあとはよろしく、といった感じ。
    『前史を越えてゆけ』 を詳しく ≫
  • いまどきこんな純度の高いなハードコアバンドがいたとは。


    シンプルなリフが良い。
    結局グッドメロディじゃないか、みたいな甘っちょろいところが無いのが良い。


    こんなバンドに対してあえて言いたいが、パンクロッカー労働組合はとても音楽的である。
    激しいだけの音楽ならいくらでも生まれうる世の中で、本当の激情はヤケクソの絶叫や衝動の雑な発散ではなく、ゾクゾクするリフや、それと丁寧に一体化したメロディにこそ宿るのだと思い出させてくれる曲。
    作曲も良いが演奏も良い。
    パンクだから下手でも良いなんてのは、何かの勘違いだったのだろう。
    気持ちは表現に宿る。であれば、表現力というやつは確かに必要なのだ。


    実情は分からないが、このパンクバンドは、日本のメロコア、ポップパンク、青春パンクを通過した形跡が見当たらない。少なくともその形跡が残っていない。
    なによりもそれがすごいと思う。
    一見、初期パンクやアングラパンク然としたバンドでも、入り口はモンパチだったみたいなバンドは沢山いる。
    カップリングやアルバムでハードなサウンドや反体制をブっても、リードシングルではZARDと同じコード進行じゃねえか、みたいなやつらだ。
    しかし、パンクロッカー労働組合は60~70年代の国内パンクのどぎつい感じこそが核になっており、決してそれが背伸びでも虚勢でもないことが一聴してわかる。

    INUやあぶらだこに影響を受けているのだろうか。
    プロレタリアートのグツグツと煮えた魂にバリバリのリアリティを感じる。
    とはいえ時代は違うのだ。混沌が煌めいた60年代はとっくに終わり、現代は、強い主張は何もかもが斜に構えた正論に封じられる10年代だ。
    この開き直り悟り社会で、その迷いの無さをどうやって、どこで育ててこれたのだろうか。
    絶滅危惧種を見た気分になってくる。
    しかし、それは決して時代錯誤なんかじゃないことが音楽を聴けば分かる。
    これが流行ったら日本も捨てたもんじゃない。


    彼らが拠点にしている高円寺にはまだこんな雰囲気があるのだとしたら、沿線に住んでいる私はすぐに引っ越したほうが良い。PVのクリエイティブや、デモ活動など含めて、気持ち良いほどブレがない。
    これが流行ったら日本も捨てたもんじゃない。
    ていうかオーバーグラウンドになるのは無理じゃないのか。
    すっごい好きだけど。

    あと、ネット上では普通にピースフルなのも面白い。ここだけ現代風。
    『絶滅危惧種を見た気分』 を詳しく ≫
  • カオティックという言葉がある。
    その言葉の選ばれ方において、カオティックと、カオスは全く別物である。

    カオスは字義通り混沌の意味。
    ジャンルレスであったり、特にそれが無秩序な印象につながっていたりすると人は、カオスな曲だ、と表現する。
    他方、カオティックはむしろ秩序だ。
    具体的には、スクリーモ、あるいはスクリーモ系のエモ、ハードコア、メタルコア、ミクスチャーロックなどを主戦場とするバンド達の、様式的で完成度高くセットアップされた変拍子や展開、音のキャラクターを褒める際に使われる。

    そう。
    本格ミステリは様式美だ。と言った小説家がいたが、同じようにカオティックも様式美である。
    スクリームがあり、ノイジーなパートがあり、メロウなパートがある。
    自己の内面に向き合った退廃的、破滅的な世界観。そして変拍子に転調、と音楽理論や演奏力をフルに発揮する。


    『自意識不明』も上記の様式美を満たした、実力派のカオティックソングだ。
    ツインペダルとメロディアスかつノイジーなリフの怒涛のスピード感。
    歌詞に魂をこめた切迫感のあるパンキッシュなスクリーム。
    ギターがクリーントーンになるメロウなパートも美しい。
    こんなときこそドラムは突っ張って捻ったパターンを叩く。
    そして歌詞。言葉でメッセージを表現することへの強い拘り。
    カオティックであるということは実力派ということなのだ。
    完全無欠であること。それは負の意味でのカオスの対極にある。


    nervous light of sundayほど本格的ではないが、同じようにカオティックなハードコアバンドの七弦ギタリストを努めていた友人がいた。
    彼は東京の高校を中退し、たくさんのバイトを経験しながらバンドでのデビューを目指していた。
    私のように学校では良い子で通ってた人種からすると、悪い友達も多そうな彼は、いわゆる不良っぽいところがあったが、音楽に対してストイックに追求するその様子には、姿勢の違いをひしひしと感じた。
    単にがむしゃらに夢を追うのではなく、彼には技術、知識への貪欲な向上心があり、事実それを身につけていた。
    ハードコアだけでなく、本当に多様なジャンルの音楽を聴き、映画やアニメにも詳しく、ピアノも弾けたようだ。

    彼には、とび職から転身したと言われるバンド『FACT』のキャリアにグッとくるような一面があった。それこそが彼の本質だと思う。
    しかし、持ち前のヤンキー気質で音楽のインテリジェンスに迫るその生き様には、同じ音楽好きとして考えさせられるものがあった。

    nervous light of sundayは大田区の大森出身のようだ。
    件の友人も東京だった。

    実は、彼がその後どうなったのかはわからない。
    『自意識不明』のスピーディーで艶やかなギターリフや、練られた楽曲構成に唸るとき、私は彼のことを思い出す。
    そしてこのシーンの層の厚さに、新たなヒーローの誕生を想像する。
    『カオティックとインテリジェンス』 を詳しく ≫
  • 若手正統派ロックバンドの大本命としてここ数年認知されているが、その原型は言われるほどスタンダード足りえるバンドでは無かった気がする。百歩譲ってイケメンでないことは置いておくとしても、谷口鮪の声には独特のねちっこさがあったし、楽曲もポップではあるが泣きメロは比較的少ない。古賀隼斗のギターは主張している。2013年のサマソニを見た時点で、バンドサウンドは躍動していたが、大衆の心を掴むならもっと楽曲が引っ張っても良いと感じた。

    『ランアンドラン』は、そんなカナブーンのいびつな甲殻がいつの間にか剥がれ落ちていたことを教えてくれる曲である。

    声の粒立ちが良く綺麗。ギターはリバーブで綺麗。Bメロの譜割りと、サビのロングトーンには、谷口鮪が作曲家として自身の曲を自在にコントールできるようになってきていることを感じる。

    結果的に、正統派の惹句にビシリと答える、見事にエバーグリーンな曲になっている。これが迎合ではなく、進化、あるいは正当な変化であること証明するのは難しい。それは彼らの今後の作品作りで分かってくるのだと思う。
    『進化、あるいは正当な変化』 を詳しく ≫

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  • 俺たちのサマーゲーム

    frAgile -フラジール-

    フラジール。国産オルタナティブ歌謡ロックバンド。 歌謡テイストを掲げるロックバンドは多い。むしろ、日本のロックの歴史はいかに歌謡曲に陥らないかという試みの中でつくられた、と言っても良いくらい歌謡テイストは日本のロックバンドが自ずと持ち得ているものである。歌謡曲は多くの日本人ロッカーにとって、ロックに目覚める前に耳に馴染んだ忘れたい過去であり、小さなコンプレックスだった。あるいは逃れられない宿

  • オーライオーライ

    呂布カルマ

    "小さい頃は 神様がいて   不思議に夢を かなえてくれた" "小さい頃は 神様がいて   毎日愛を 届けてくれた" (やさしさに包まれたなら) 荒井由実の歌った神様は小さい頃にだけ存在する。 夢をかなえ、愛を届ける神様だ。 荒井由実の歌った神様は何のために存在するのだろうか。それは私たちが、夢をかなえ、愛を届ける存在であることを、人生の始まりの子供時代に学ぶためだ。私たち

  • さよならスカイライン

    ラッキーオールドサン

    圧倒的に聴きやすいのに圧倒的に独自性に満ちている。 あなたが古き良き温かい時代に生まれずに、絶望ばかりのこんな時代に生きていることを恨んでいるのなら、 あるいは、 失われた青春時代の自分から、今の自分はどうしてここまでかけ離れてしまったのかと嘆いているのなら、 あなたが聴くべき音楽は、 あなたにとっての懐メロではなく、 ラッキーオールドサンだ。 ラッキ

  • スポーティパーティ

    ウルフルズ

    つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。 このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。 リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。 なんてダーティーなんだろう。 単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。 そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。 そ

  • Connect

    田口 淳之介

    田口淳之介は精悍になった。 KAT-TUN全盛期の頃は、ワイルドなグループにおいて、ブラウンのロングヘアーがナチュラルにカールしている、甘い微笑みの優男という印象だった。 『Connect』のMVでダンスする田口淳之介と、公式ホームページのビジュアルイメージは統一されていて、ともにこれ以上さっぱりしようがないくらいにさっぱりした男になっている。 無駄なものが削ぎ落とされたかっこよ

  • Paris / 結局地元 feat.Y’S

    KOHH

    両親や二つ下の弟、中学や高校時代を共にした友人たちが、私が離れたあともずっとあの町でくらし続けていることを思うと不思議な感慨がある。 KOHHを聴いて、弟に聴かせたいと思った。 都会に憧れて18で上京した私とちがって、弟は地元の仲間や地元の店を愛し、そこで暮らし続けている。彼ならきっと、「結局地元」と発するKOHHのパフォーマンスが、開き直りでも諦めでもなく、むしろラディカルで本質的なもの

  • BLINKSTONEの真実を

    BIGMAMA

    金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。 無理もない。この人は持てる者だ。 まず普通に顔が格好良い。 そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。 BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は

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  • フラジール。国産オルタナティブ歌謡ロックバンド。

    歌謡テイストを掲げるロックバンドは多い。むしろ、日本のロックの歴史はいかに歌謡曲に陥らないかという試みの中でつくられた、と言っても良いくらい歌謡テイストは日本のロックバンドが自ずと持ち得ているものである。歌謡曲は多くの日本人ロッカーにとって、ロックに目覚める前に耳に馴染んだ忘れたい過去であり、小さなコンプレックスだった。あるいは逃れられない宿命だった。ブルースの下地がなかったこの国は、その宿命との闘争を経て、ロックを獲得するに至るユニークな歴史をつくった。

    ニューミュージックと言われるムーブメントが、紅白歌合戦へのアンチテーゼを掲げる一方で、多分に歌謡曲の影響を受けていた。ビートルズやボブ・ディランに影響を受けたというアーティストが、英米文化圏で先達が築いた価値観とは真逆の日本の芸能界で、テレビ局で、活躍し続けた。

    やがてその矛盾に多くの後続が気づくことになる。
    彼らは次第に、歌謡・芸能文化へ迎合しないオルタナティブな音楽性や活動スタンスと、商業的成功を両立することを目指すようになる。

    その末裔のひとつに、邦楽ロック、ギターロックというジャンルがある。
    邦楽ロックというジャンルを語るときにロッキンオンジャパンという雑誌を無視することはできない。というのも私は、上述の矛盾を解消するために、あるいは、表面上は解消されたように見せるために最も貢献したのは、どのバンドでもなく他ならぬロッキンオンジャパンだと思っている。そしてその矛盾を解消する試みは未だに続いており、そして彼らは今最も苦しんでいる。

    分かる人はこれだけで分かると思う。ロッキンオンジャパンについてはまた別の機会で掘り下げるとして、ひとつピックアップしておきたいのが、矛盾解消にはいくつかの手法があり、ロッキンオンジャパンが試みたのはそのひとつであるということだ。そしてフラジールはまた別の手法を試みている。

    ロッキンオンジャパンの試みは要するに、そのバンドにオルタナティブな文脈を付与することである。その試みは、バンドが如何なる様相を呈していようとも関係ない。なぜなら雑誌の存在意義がオルタナティブであることであり、また長いテキストの読み応えが必要とされているからだ。ちなみにインタビューという手法はその際非常に便利だ。メンバーから語られるパーソナルなヒストリーは、本質的にパブリックな大衆へのオルタナティブだからである。

    閑話休題。上述の矛盾を解消するためのフラジールの試みは、オルタナティブであることを証明し続けるロッキンオンジャパン的なものではなく、私たちは歌謡曲が好きなんです、みんな歌謡曲好きだよね、という開き直りだ。

    さて、歌謡曲の再評価など、今の時代すでに当たり前だと指摘することもできるだろう。問題は、ロッキンオンジャパン誌上で歌謡曲が好きだと発言しカノン進行で甘いメロディのシングル曲を書く事が歌謡曲の再評価ではない、という点である。

    非常に個人的な定義をここで持ち出そう。それは、ロックにはアティチュードがあり、歌謡曲にはアティチュードがない、という定義だ。これは優劣の話ではない。楽曲の良し悪しにアティチュードは関係ない。

    アティチュードのない芸術は何を愛するか。それはB級であることである。
    『俺たちのサマーゲーム』を聴いて私が最初に思ったことは、サザンオールスターズが本当にやりたかったことはこういうことだったのではないか、というひとつの感慨である。それは感慨である。ロックの音と、歌謡曲の哀愁、お茶目なケレン味、そのミックスによる胸の高鳴り。『俺たちのサマーゲーム』には、サザンオールスターズの長い夢がひっそり実現されていたという不思議な結末感がある。あまりに安っぽく、それ故にファンキー。テロテロなギターソロ。すっとぼけたアンサンブル。

    『俺たちのサマーゲーム』は、歌謡曲の哀愁を特にフィーチャーするフラジールにしてはからっとしたナンバーだが、アティチュードから自由であるという意味で、真にB級である。

    私たちは成長することでアティチュードを手に入れていく。しかし、それは人生を支配しない。人生を支配するのは、食事やトイレや掃除や洗濯や睡眠や家族や友達や恋愛だ。それはアティチュードの及ばない欲望であり、生活だ。その重要度を取り違えると私たちはアティチュードの自家中毒に陥る。アティチュードは、思想、夢、目標、文学と言い換えても良いかもしれない。B級芸術、歌謡曲、フラジールは、アティチュードから自由である故にほんとうの意味での人生を切り取る。

    『俺達のサマーゲーム』の歌詞に象徴的な一節がある。


    "胸騒ぎ 渚に寝そべる loco girl
    case by case game"


    このゲームは、ケースバイケースなのだ。
    一方で、桑田佳祐は『TSUNAMI』で次のように歌った。


    "人は誰も愛求めて 闇に彷徨う運命
    そして風まかせ Oh,My Destiny"


    桑田佳祐が国民的ロックバンドとしてベタに、シリアスに大成功した背景には、恋を「運命 = Destiny」と歌ったことにあるのかもしれない。もしウシジマタクロヲのようにおちゃらけて、「ケースバイケース」と歌っていたら。

    B級歌謡ロックバンド、サザンオールスターズはもう一つの夢を叶えたかもしれない。
    『歌謡曲とロッキンオンとサザンの夢』 を詳しく ≫
  • "小さい頃は 神様がいて
      不思議に夢を かなえてくれた"

    "小さい頃は 神様がいて
      毎日愛を 届けてくれた" (やさしさに包まれたなら)


    荒井由実の歌った神様は小さい頃にだけ存在する。
    夢をかなえ、愛を届ける神様だ。
    荒井由実の歌った神様は何のために存在するのだろうか。それは私たちが、夢をかなえ、愛を届ける存在であることを、人生の始まりの子供時代に学ぶためだ。私たちはその教えを胸に、神様がいなくなったあとの人生を渡ってゆく。あたかも神様が、私たちに80年効く魔法をかけて去って行く存在であるかのように。



    それでは呂布カルマにとっての神様とはなんだろうか。
    このような問いを立てるのも、『オーライオーライ』ではユーミンに負けず劣らず、神様という単語が印象的に使用されているからだ。


    "神様が僕にだけ秘密で教えてくれた呪文
    世界中の人が幸せになる代わりに歌うことがなくなるよう

    神様が僕にだけ秘密で教えてくれた呪文
    世界中の涙が笑顔になるがしかし芸術はくたばるよう" (オーライオーライ)


    フックにあたるこのリリックでは、"世界中の人が幸せ"で、"世界中の涙が笑顔になる"世界を理念として掲げていることがわかる。神様はそれを叶える呪文を知っており、その呪文を呂布カルマが授かったというストーリーが描かれる。

    呂布カルマが授かる呪文なのだからそれはヒップホップだろう。
    ここでの主たる主張は、以下の三点にまとめられる。


    1.選ばれし者としての呂布カルマ
    2.呪文 = ヒップホップが世界を幸せに導くという理念
    3.そして理念が成就した暁には芸術はくたばり、歌うことはなくなり、すなわちヒップホップがくたばるという歴史観


    ここには驚くべき、宗教との相似がある。一般に宗教は、幸福の理念を持ち(2)、その実現のための歴史を持ち(3)、それを広めるための使徒(1)を持つからだ。

    ここで述べたいのは、呂布カルマが特定の宗教を信仰しているという話ではない。期せずしてその構図が似てしまっているという点だ。



    紐解こう。
    キーワードはやはり神様である。
    クライマックスのフックを引用する。


    "すれ違う瞬間に何か見た
    神様と目が合って理解した

    全部わかった" (オーライオーライ)


    不気味なほどの全能感であるが、実は先程のリリックとは大きな違いがある。それは、呂布カルマ個人の、プライベートな"理解"に比重が置かれている点だ。加えて、"すれ違う"という言葉が、呂布カルマが街中を歩き回るだけのMVと親和し、その宗教的体験が日常に潜むものであることをリスナーは唐突に知らされる。要するに、ヒップホップで世界を幸せにする壮大な歴史だったはずが、個人としてすべてを理解し何かを悟ることへと、劇的にスケールダウンされている。

    その劇的なスケールダウンが、安易な着地点として位置づけられず、むしろこの曲の不気味さを際立たせていることに注目する必要がある。

    これはおそらく多分にテクニカルな手法である。トラックの良さやリリック全体の刷り込みも効いている。もちろんパフォーマンスもある。しかし決定打は、世界への使命を負った使徒である呂布カルマから、自分への使命を負った個人としての呂布カルマへのモードチェンジである。このモードチェンジが上記のスケールダウンに内在されている。そのスケールダウン、落とし込みを目の当たりにし、リスナーはあたかも世界全体を幸福にするという宗教的なストーリーが呂布カルマ個人へと落とし込まれたかのような錯覚を覚え、凄みとともに不気味さを感じるのである。

    ここでは神様の位置づけも変わっている。使徒に呪文を授け、遣わす支配的な存在から、日常のストリートに潜み、すれ違いざまに"全部わか"らせる脱支配的な存在に変わっている。


    さて、ユーミンをもう一度思い出そう。
    ユーミンの神様は、『オーライオーライ』で呂布カルマが行ったアクロバティックなモードチェンジの、結論だけを切り取ったものと実は似ている。ユーミンの神様も、日常に潜み、個人へ気づきを与える、脱支配的な神様だからだ。

    そして『オーライオーライ』のすごさは、超越的で絶対的な幸福の理念と歴史の存在に今一度チャレンジしていることにある。それは永らく人類がチャレンジし続け、そして現代では諦められつつあることだ。

    そのチャレンジのために呂布カルマは、逆説的にユーミン風の現代的で脱支配的な神様を導入している。

    さきほどは、両者を繋ぐに際してモードチェンジと称したが、正確には違う。呂布カルマのモードはチェンジしていない。二つのモードは一曲の中に併存されているのだ。そしてその目的は、双方の強度を高め合うことにあり、それこそが詩人、呂布カルマの説得力の源泉である。
    『神様の存在 ユーミンとの比較』 を詳しく ≫
  • 圧倒的に聴きやすいのに圧倒的に独自性に満ちている。


    あなたが古き良き温かい時代に生まれずに、絶望ばかりのこんな時代に生きていることを恨んでいるのなら、

    あるいは、

    失われた青春時代の自分から、今の自分はどうしてここまでかけ離れてしまったのかと嘆いているのなら、


    あなたが聴くべき音楽は、
    あなたにとっての懐メロではなく、
    ラッキーオールドサンだ。


    ラッキーオールドサンを聴けば、
    この世のすべての過去は、
    いま目の前のこの現実こそが、
    セピア色で、
    温かく、
    愛おしさに溢れたレトロな世界へと、
    断続的に変わっていったものだったのだと、
    知ることができる。



    ある意味、このバンドは非常にテクニカルだと思っている。
    月島雫が大人になったような、唱歌のようなナナの歌声も、どこまでもクリーンにこだわり抜かれた篠原良彰の美学的なギターも、カーステレオ、木綿のハンカチーフ、十三回忌の母、といった言葉選びも、サングラス、ホテル・カリフォルニア、追憶のハイウェイ61、A LONG VACATION、カッタウェイの無いエレキギターといったMVの小道具も、ある雰囲気を表現するための意匠として申し分なさすぎて怖いくらいだ。ここまでアジャストされた意匠を取り揃えたセンスに、ラッキーオールドサンの、演出家としての、高等なテクニックを感じざるを得ない。


    ところで、ラッキーオールドサンは、優しいだけの音楽だろうか。癒されるだけの音楽だろうか。現状をただ肯定するだけの音楽だろうか。前向きに生活へと向き合うためのサプリメントのような音楽だろうか。私は、それは違うと思っている。

    ラッキーオールドサンは確かに、三丁目の夕日的な直線的な癒やしのノスタルジーとして消費されてしまう可能性を常にはらんでいる。また、批判的に捉えたい人は、そのように誤解すれば、たやすく批判できてしまう。その種のガードの弱さが、ラッキーオールドサンにはある。上述の無数のレガシーな意匠たちこそ、批判されるとき、槍玉に挙げられてしまうだろう。

    しかし、その意匠たちはあくまでテクニカルな産物である。私が思うに、ラッキーオールドサンの本質は別のところにある。彼らの本質は、ライブハウスではなく、カフェや飲食店と併設されたイベントスペースでのパフォーマンスを頻繁に行っているところに隠れている。

    どういうことか。
    次のことを再確認したい。
    ライブハウスは音楽が必要とされている空間ではないということだ。

    例えば、飲食店は音楽を必要とする。なぜなら私たちは気分良く食事をしたいし、店主は私たちが気分良く食事することを望んでいるからだ。バーは音楽を必要とする。私たちは気分良くお酒を楽しみたいし、マスターは私たちがバーでお酒を片手に最高のひとときを過ごすことを望んでいるからだ。大半の飲食店はBGMを流す。そして、特別な居心地を提供したい飲食店は、音楽家を招き、生演奏を披露する。

    立ち戻ろう。ライブハウスは、音楽が必要でないのに、わざわざ音楽を鳴らしにいく場所である。コンサートの日になると演奏家と聴衆が一斉にからっぽのライブハウスに集結する。そこに初めから音楽を待っている人はいない。


    結論に行こう。要するに、ラッキーオールドサンは、音楽が必要とされている場所に、音楽を届けることを生業としている。必要としていない人に自分の音楽をなんとか聴いてもらい、ライブハウスに来てもらうのではなく、必要としている人のもとにフワリと音楽を置きにいく。それは音楽の慣性に倣った音楽との関わり方である。
    二人は意識的に選んでいるわけではないかもしれない。しかし、この差異はとても重要なことだ。
    音楽の慣性に倣うことで自ずと、つくる曲も、演奏も変わってくる。ラッキーオールドサンのオーガニックな音楽性は、音楽の慣性への、身体的、精神的な適応がもたらしたものである。

    音楽の慣性との付き合い方については、また別の場所で掘り下げる価値があると思っている。ラッキーオールドサンの活動スタイルは、その際の問題提起として起票するに値する批評的なものだ。

    最後に、
    MVでスカイラインを運転している男性がいい味を出している。
    この曲をシングルカットするなら、CDジャケットはタバコに火をつける彼の横顔で決まりではないだろうか。
    『あなたにとっての懐メロではなく』 を詳しく ≫
  • つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。
    このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。

    リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。
    なんてダーティーなんだろう。
    単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。
    そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。
    その両方に火炎放射を浴びせて焚き付けるようにのたうち回るギター。

    バックトラックだけを聴けば、ビジュアルイメージさえも、ウルフルズのパブリックイメージとは違う、ダーティーで硬派なルックスが浮かび上がってくるはずだ。

    バンドにとって、ボーカルが花だとすれば、楽器隊はさしずめ花瓶である。仮に花を取り外して、花瓶としての美しさ、かっこよさ、丈夫さを評価してみれば、世のバンド界隈には、いまと全く違った素敵な世界が広がっているかもしれない。ウルフルケイスケ、ジョン・B、サンコンJr.がつくる模様のないタイトな花瓶は、そんな可能性を妄想させてくれる。

    さて、そんな最高の花瓶に生けられているにも関わらず、すべてを持っていってしまうトータス松本には何があるのか。

    ひとつ提案したいのは、ボーカリスト俳優説だ。
    古今東西、ロックバンドのボーカリストが、一定のキャリアを積んだ上で俳優業を掛け持つ例が後を絶たない。トータス松本も然り。無論、楽器隊より人気が出やすいこと、ソングライターであれば俳優業にも通じるクリエイティビティを潜在する場合が多いことなどの条件もあるが、そもそもボーカルとは喋るパフォーマーであることを忘れてはならない。つまるところ、技術的にボーカルと俳優は近似しているのだ。

    トータス松本は、喋るパフォーマーとしての俳優力が高い。
    演劇の世界では、小道具大道具を用意せず、あえて喋りのみで情景描写や世界観を表現するスタイルが一般的に存在する。それは演技の持つ可能性を最大限に楽しめる、まさに演劇の真骨頂だ。その空間では、言葉とアクションだけで場のすべてを持っていく使命が俳優に課されている。

    ある種のボーカリストの持つ驚異的な空間掌握力はその使命の達成に近い。
    声が良い。顔が派手。しなやかな身体。個別の要素を挙げればいくらでも褒められる。しかし、俳優が観客に情景を見せるために注ぎ込まれるエネルギーは、決して個別の要素の能力値では測れない。
    文字通り前身をフルに駆使する。セリフのピッチは勿論のこと、瞬きひとつ繊細に研ぎ澄まされた、総合芸術だ。

    ボーカリストは総合芸術である。そしてトータス松本は歌のうまい花ではなく、最高の花瓶に刺さった最高の俳優だ。"スポーティパーティ"のリフレインと対になるBメロの、アドリブのように不定形で切迫したボーカルワークを聴けばその怪演に胸を打たれずにはいられない。
    『最高の花瓶とボーカリスト俳優説』 を詳しく ≫
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