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  • ラバーソウル

    GRAND FAMILY ORCHESTRA

    太っちょのドラマーがいるバンドってもうそれだけで雰囲気良いよね。 太っちょのキャッチャーがいる野球部みたいなもんでさ。 ダンサンブルでアッパーな流行りのロックかと思いきや、スパイスのような哀愁が良い曲。 コーラスはどこかヨーロピアンでレトロ。あえて、ミクスチャーロックのタグをつけさせてもらった。 構成は意外とシンプルかつ挑戦的。『リンダリンダ』の如きロンド形式。冒頭のリフレイン

  • ANOTHER STARTING LINE

    Hi-STANDARD

    メロコアと言われる音楽が持つポップ感ってわりと様式美的なものがあって、どんなにメロディックであろうと刺さらない人には全く刺さらなかったりする。かく言う私も、メロコアを聴くときは、「あーメロコアのメロコア感気持ち良いー」的なチャネルが活性化されている状態に無意識に合わせているもので、言うなればそれは一種の敷居だったりする。 『ANOTHER STARTING LINE』がスゴく良かったのは、メ

  • Make a song

    パンクロッカー労働組合

    いまどきこんな純度の高いなハードコアバンドがいたとは。 シンプルなリフが良い。 結局グッドメロディじゃないか、みたいな甘っちょろいところが無いのが良い。 こんなバンドに対してあえて言いたいが、パンクロッカー労働組合はとても音楽的である。 激しいだけの音楽ならいくらでも生まれうる世の中で、本当の激情はヤケクソの絶叫や衝動の雑な発散ではなく、ゾクゾクするリフや、それと丁寧に一体

  • Paris / 結局地元 feat.Y’S

    KOHH

    両親や二つ下の弟、中学や高校時代を共にした友人たちが、私が離れたあともずっとあの町でくらし続けていることを思うと不思議な感慨がある。 KOHHを聴いて、弟に聴かせたいと思った。 都会に憧れて18で上京した私とちがって、弟は地元の仲間や地元の店を愛し、そこで暮らし続けている。彼ならきっと、「結局地元」と発するKOHHのパフォーマンスが、開き直りでも諦めでもなく、むしろラディカルで本質的なもの

  • Fall

    told

    「最近の若手には骨のあるやるがいないんです」 「あんたは春になるといつもそう言うな。新入りってのはな、朝顔みたいなものなんだよ」 「アサガオ?」 「ああ。アサガオだ。芽が出るまではとにかく水をやることだけ考えていれば良い。支柱をたててこっちが望む方向にツルを巻いてもらうのはそのあとの話だ」 「なるほど。おやじさんの言うことはやはり含蓄が違う」 「お代はまけないよ」 「わかってますって。

  • Good New Times

    Gotch

    バンドマンのソロを聴くのは好きだ。 その人が、バンドとソロ、公と私をどのように分断するのか。 その境目をどの地点に置くか。音なのか、歌詞なのか。仕事と趣味なのか。 一番好きなジャンルと、二番目に好きなジャンルなのか。 それまでのバンド作品では、プライベートな音楽を鳴らしていたのか。 そうではなかったのか。 ソロ作品をリリースするとたくさんのことが見えてくる。 『Good

  • Ice Candy

    カフカ

    IceCandy、良いギターロックである。 突風のように蒼い轟音と疾走感。歌詞の断片のブライトな響き。 歪んだシングルコイル、ディレイ。気持ち良い。 ときは2000年代前半。 私たち日本生まれのゆとり第一世代は思春期に差し掛かり、ある遺伝子変革に遭遇したのだと思う。 ギターロックという本能の誕生である。 禁断の果実はBUMP OF CHICKENだったのだろうか。 あるい

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  • ウィリアム・ギブスン!

    近代的なダンスビートと、キッチュなメロディラインは、そのタイトルに相応しいSF的高揚感に満ちている。

    "ありふれた感情の墓場って
    全くこんな感じだって"

    クールに怪しく激走するイントロからのハスキーな歌い出しがむちゃくちゃ格好良い。
    ワンコーラス終わった後、自由に展開しはじめる主旋律も、曲の混沌を深め、いい具合にリスナーを迷わせる。
    工場?を舞台に撮影されたMVは、コンセプチュアルで美しい。
    金髪とパステルカラーのロリータ衣装は、もはやサブカルアイドルの意匠である。


    この世界観は、いわゆる、地下アイドルで無ければ出せない。
    やはり清楚であっては良くないし、黒髪であっては良くない。
    シンガーソングライターやバンドがやっても、エゴイスティックになってしまい、ポップにならない。

    エゴイスティックになってしまい、ポップにならない。
    エゴを廃し、ポップにする。そう、アイドルの役割はここにあるのだと思う。

    インタビュー系音楽雑誌をかすめる程度に読めば分かるが、この国の音楽は創りての人生のストーリーに創作物を引きつけすぎである。曰く、「このシングルは、もう後ろを振り返らないで音楽を続けてくぞ、といううちらの決意です。あえて前向きな歌詞をつくりました」「長いトンネルの中にいました。この曲ができることで次に進めるようになった気がします。大切な曲です」「過去の自分達を乗り越えるためにはこのアルバムをつくることが必要でした」


    私が聴きたいのは音楽であり、あなたの自伝を彩るBGMじゃないことに気づいて欲しい。

    アイドルには、その生臭さがないから良い。良い曲は良いし、楽しい曲は楽しい。作詞作曲者がどんな苦難を乗り越えてどんな人生を歩んでようが、アイドルに曲を提供した時点で、それはただの音に変わる。

    私たちはただの音が聴きたい。

    そういう意味で、アイドルの役割は、エゴを廃し、ポップにすることなのだ。
    アイドルに癒やされるという声をよく聞くが、考えてみればそれは必ずしも天使のようなルックスや、愛くるしいキャラクターに癒やされているのではないのだと思う。
    何より、エゴの付きまとう現実世界と自分自身に、時として、薬品のようにクリアに成分調整されたアイドルは染みるのだ。

    それはとても人工的な癒やしだ。電子ビート、そして『ニューロマンサー』が証明した、SFとの愛称の良さは、アイドルのそんな特質とも関係するのかもしれない。
    『アイドルとSF』 を詳しく ≫
  • あいみょんは、影のある少年のような声をしている。あいみょんの最大の個性は、ハイパフォーマンスなこの声にある。尖った強いエゴや、その奥で守られている心の震えを、言葉を乗せずとも伝えてしまう蒼い声だ。

    アコースティックギターのストロークよりもスピーディーに畳み掛けるメロディは、声の次に独特だ。野狐禅の竹原ピストルに似ていると指摘されているが正しいと思う。フォークの流儀だ。声質も相まってすこぶる気迫がある。聴き流せない怖さがある。アコギ弾き語りというと、一発目でピースフルで爽やかだという偏見を持たれるものだ。戦犯はゆずでも、YUIでも、miwaでも、街中のストリートミュージシャンでも良い。何れにせよあいみょんは、まず第一にそういうものに妥協せず抗っていこうというイノセントなパンクスピリットを感じる。

    歌詞だ。声とメロディはあいみょんの武器だが、あいみょんを表現へと駆り立てる原動力になると同時に、最大のアイデンティティとして機能しているのはやはり歌詞である。

    メジャーデビューシングル『生きていたんだよな』は、曲名からしておっかない。放り投げた語尾が乱暴な男のようだ。歌詞のストーリーはこうだ。



    飛び降りて亡くなった女子高生がいる。そのニュースを消費するネット、テレビ、大人たち。女子高生に共感する自分は泣いている。やりきれない思いを抱きながら一日が暮れていく......。



    正しい十代のうた。ふと浮かんだ言葉はそれだった。ヘビーな単語も並んでいるので、詳細は聴いてみてほしい。リアリズムで尚且つフィクショナルな世界観は、彼女の口紅の色のように強く濃く主張されている。この曲に結論はない。生きていたんだよなという事実とそうではなくなってしまったという事実に主体は混乱させられたままだ。それは作詞家に必要とされる真摯な姿勢である。主語を使用していないために客観性が保たれ、より冷徹でハードな批評性が宿っている。

    『生きていたんだよな』には憤りがある。歌に宿るメッセージや社会性は、憤りから生まれるものなのか。と、この曲を聴いて腑に落ちた自分がいる。憤りは歳をとれば失われる。失われなければならないのだ。社会で人と繋がって生きていくためには。

    だからこれは正しい十代のうただ。いつか手放さなければならない憤りだが、その本質はエネルギーだ。それを燃やすことで私たちはまた次のティーンネイジャーになにかを繋いでいく。
    『正しい十代のうた』 を詳しく ≫
  • 美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。

    コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。

    その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンクバンドときた。曲も良い。演奏も良い。ルックスも良い。若い。大人のバックアップを看破できれば、むしろそのプロフェッショナルなプロダクションを愛せたかもしれないけど、それもできないから、私はただこのバンドを深追いするのを辞めた。私は信じられなかったのだ。そして許せなかったのだ。こんな若く美しい男性たちが、それに到底似合わない本物の音楽に、自然と出会い自然と惹かれたという事実が。


    このバンドの司令塔は澤竜次である。
    良いギタリストはフォームで分かるが、澤竜次もそのご多分に漏れない。右手のポジショニングが柔らかく美しい。良いギタリストはネックを遊ばせる。しなやかに傾くストラトキャスターを見てるだけでこちらの気分も良くなってくる。良いギタリストは、つまり澤竜次は、歪みの深さを選ばず、複弦でも単弦でもぱりっと弾ける。ブルージーかつ破壊的、時々トリッキーな音作りは黒猫チェルシーのイメージに大きく寄与している。『サニー』でもリフにソロにと彼の良さが存分に顕れている。澤竜次のルーツはハードロックとジミ・ヘンドリクスのようだ。なるほど納得である。パンクが入り口でここまでの演奏力にたどり着く想像はなかなかできない。バンドがINUやスターリンと似てきたのは、日本語の歌との融合の結果であり、それは、引いては、黒猫チェルシーが渡辺大知のバンドであるただそれだけの帰結だったのだ。

    とはいえ、元来このバンドが澤竜次のバンドであったことを考えれば、合点がいくことも多い。華美な衣装はジミ・ヘンドリクスのサイケデリアであり、ガレージパンクな音も、種を明かされればハードロックだ。華がありすぎる渡辺大知をイチ抜けし、澤をフロントマンに置けば、バンドのルックスだってハードロックオタク集団に見えなくもない。しかしながら、その趣味的な世界に閉じこもらないところまでが澤の判断であることは留意したい。

    『サニー』において、作曲クレジットはバンド名だが、曲を引っ張っているのはやはり澤のギターだ。この時期は、澤についていくカタチで、渡辺大知が音楽性を深化させていく様がバンドに良いバランスを持ち込んでいる。リフ主体のイレギュラーな曲展開に制約された歌が、メロウでないのに異様にポップであるのは、異物同士を手探りでドッキングさせたときのマジック以外のなにものでもない。
    このバンドのポップネスは、澤がひっぱる研究家肌の楽器隊と、ミーハーな天才肌である渡辺との怪しいバランスが成立させ、成長させてきた。『サニー』はその幸福な関係が最良のカタチで具現化した時期の、彼らの代表曲だと思う。


    ところで最近はすっかり渡辺のバンドなので、また様相が変わっている。と言った捉え方はかなり乱暴だが、澤が自身の趣味性をFAIRY BRENDAという別バンドで発揮しはじめたのも示唆的だ。黒猫チェルシーは、より歌ものにシフトし、バンド自体の物語を歌うようになった。ドッキングを繰り返した異物たちは、遂に整理整頓され、収まるべき所に収まったと言える。黒猫チェルシーが幸福でユニークだったのは、整理整頓されないままの有り様を作品にできる環境を手にしていたことにある。それゆえの歪さが、私のような者の変な誤解を産んだが、一方で産み落とされた作品は永遠だ。これらの作品たちは、過大でも過小でもない評価に時間をかけて辿り着くだろう。個人的にも、ギタリスト澤のFAIRY BRENDAとともに、黒猫チェルシーの新時代と新解釈に出会い続けるつもりである。
    『過大でも過小でもない評価に』 を詳しく ≫
  • 音楽業界という謎の機関による絶賛を除いて、「ぼくのりりっくのぼうよみ」が絶賛されているところを見たことがない。

    いきなり口がわるく申し訳ないがぼくはそう思う。
    ただ、ぼくにとって音楽業界という謎の機関は、芸能関係者という謎の関係者と同じくらい情報に通じているという認識なので、ぼくは絶大な信頼を置いている。

    だから、ぼくは「ぼくのりりっくのぼうよみ」を全面的に信頼している。もしも「ぼくのりりっくのぼうよみ」をぼくが好きにならなかったらそれはぼくが間違っている。ぼくにとって音楽業界というのはそういう存在なのだ。

    『Be Noble』をぼくは聴いてみた。
    ぼくにはこの曲の良さが分かるはずだ。
    わかるぞ。わかる。これはすごい曲だ。
    例えば歌詞だ。音楽業界がいつも「ぼくのりりっくのぼうよみ」の歌詞を絶賛していることをぼくは知っている。


    "盤上の広がる森羅万象"

    "どうせ全部蜃気楼と大差ない選民思想"

    "此処にいる意味のために what I do without u"

    "叱りつけて前へ進む 進む let mi know"


    とても難しい言葉が並んでいてぼくにはあんまり理解できないが、「ぼくりり」がとても難しいことを考えていて、それを芸術的に表現していることがわかる。英単語も学校では習わないものがつかわれていることを指摘しておきたい。


    次に、トラックだ。
    一聴しただけではトラックというやつが何なのかぼくはよくわからないが、大きい車か、運動場のどちらかであることは間違いない。
    いや、落ち着いて考えよう。「ぼくりり」のことだから、その二つの意味を掛けているのかもしれない。
    すごい。なんて、天才的なんだ。
    ぼくも音楽業界と同感である。
    「ぼくのりりっくのぼうよみ」はトラックが抜群に良い。


    そしてラップだ。
    「ぼくのりりっくのぼうよみ」はラッパーなのだ。ラッパの技術では右に出るものはいない。『Be Noble』でも最高のラップを聴かせてくれる。ぼくはまるで歌のようだと思った。BUMP OF CHICKENの声のようなラッパを吹くものだと感心した。


    最後に「ぼくのりりっくのぼうよみ」は頭が良い。
    音楽業界は彼の頭の良さを積極的に指摘している。頭が良いことは音楽家にとって特筆すべきことだ。ぼくたちは「ぼくのりりっくのぼうよみ」のCDを聴くと同じくらい、彼のインタビューをインターネットで読むべきだ。東大に落ちたらしいが、東大を受けたということは東大に受かることと同じくらいすごいことなのだとぼくは思う。


    頭が良く進歩的な「ぼくりり」は2ndアルバムのタイトルを冠した『NOAH’S ARK』というオウンドメディアを立ち上げた。ぼくはこれを素直にすごいと思う。その理念の一部を次に引用する。


    "あふれる情報の洪水に流されることなく、きちんとものごとを考え、この世界で生きていくためには何をすればいいのか"


    Twitterでは、それをふまえて次のようなTweetをしている。


    "評論家の方々が書かれている、意味わかんないけどいい感じにみえる抽象的で曖昧な言説って、いま氾濫してるノイズのひとつだと思うんですよね 無意味
    で、そういうのに惑わされないような力をみんなが持ってる方が楽しい世界になるな、と思って今回メディアをはじめました"


    宛先は、評論家の宇野維正だ。ぼくも「ぼくりり」に同感だ。ぼくも新しい音楽を抽象的に、曖昧に褒めて、流行に流されながら新しいシーンをパズルして、音楽に価値をあたえた気になっている、歌も歌えない音楽評論家と音楽業界がだいきらいだ。
    『音楽業界と音楽評論とぼくとぼくりり』 を詳しく ≫

NEW MUSIC最新のおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • 恋人ができたんだ

    My Hair is Bad

    若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。 大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。 では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。 メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。 私は、若者が書いたラブソ

  • ハイエース

    フラワーカンパニーズ

    フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、 "いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)" ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。 私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった

  • カガミヨカガミ

    トライアンパサンディ

    ヘビーでポップでオルタナティヴ。曲が良い。トライアンパサンディの楽曲は粒ぞろいだ。それもそのはず、ボーカルのG-YUNcoSANDYは、GOLLBETTYとしてトイズファクトリーから若くしてメジャーデビューしている。 トライアンパサンディは、巷によくある、かわいくて格好良いバンドではないようだ。『カガミヨカガミ』での出だしのビターな歌メロのリフレイン、主張しすぎないギターリフ、声へのエフェク

  • サニー

    黒猫チェルシー

    美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。 コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。 その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンク

  • あの娘のギターはタイムマシン

    円盤少女

    円盤少女の和田純次はめっちゃ良いメロディを書く。 ただただ良いメロディを書く。 それ以上でもそれ以下でもない。良いメロディを書く。 これ。きっとまだ世の中のほとんどの人は知らないと思うんだけど、私は声を大にして言いたい。この人の書くメロディは良い。 明るく切ない、日本の歌謡曲の正道を行く美しいメロディだ。 とてもベタで王道だ。 でも決して安易ではない。 あーあ。ってなりそ

  • ソレデモシタイ

    平井 堅

    平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。 平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へ

  • Nipponia Nippon

    SALU

    ナショナリズムってのはいつの時代も問題だと思うけれど、ここ最近はとくに悪い意味での存在感を増している。日本という国の素晴らしさを日本人に向けてアピールする人や、コンテンツ、メディアが増えた。そのどれもが、見ているこっちが恥ずかしいほど幼稚な内容にも関わらず、確かにそれに癒され、勇気づけられている人たちがいる。政治や経済での機能を除いて、国家というものがなぜ必要なのか、という問いに答えるのは難しい。

NEW REVIEW最新レビューから音楽をみつける

  • 若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。

    大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。
    では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。
    メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。

    私は、若者が書いたラブソングだと思う。
    恋愛は普遍的だ。
    だからこそ、その切り取り方に時代が見え隠れする。


    例えばSHISHAMOの『君と夏フェス』。夏フェスが社交の場として定着した今だからこそ歌になるラブソングだ。昔ならそれはビーチだったかもしれないし、映画館だったかもしれないし、ディスコだったかもしれない。


    My Hair is Badの『恋人ができたんだ』は、男性目線の歌だ。
    新しい恋人ができたことで、以前の恋人を思い出す歌。

    いかにも女々しく、色恋が世界のすべてでいられる年頃の青臭さを感じる。
    私自身が個人的に共感できるかと言えば、正直Noだ。
    大人の男になってしまった青年はもう、過去の恋愛をこれほどまでにウェットに振り返れない。美化こそすれど。

    過去に対してウェットになれるのは若者の特権だ。それは、過去を感傷の対象ではなく、情熱の対象として見ることができている証拠である。なぜそれができるかと言えば、若者はそもそも抱えている過去の絶対量が少なく(故に過去自体に神秘性があり)、その上過去といえども精々、二三年前程度のものだからだ。

    『恋人ができたんだ』において同時代性を感じるために、もうひとつのポイントに着目する。別れた後の恋人、という概念の新しい解釈だ。

    いまの若者の恋愛の主戦場は間違いなく、LINE、Twitter、Instagram、FaceBookなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)である。SNSの本質はアーカイブ性と、公共性だ。結論から言えば、別れた恋人と連絡をとろうとしなくても、SNSを覗けば、元カレ・元カノのその後が見えてしまう。

    SNSは恋愛に新しい観点を持ち込む。自分を振った元カレがまだ自分をフォローしているのを知った上で、あえて落ち込んで見せることもあるだろう。逆に、他の男なんていくらでもいることを見てほしくて、遊んでいることを匂わせた写真をいつも以上にアップロードするかもしれない。切り替えたことを知ってほしくて、アイコンを変えることもあるだろう。シェアした音楽を深読みしてしまうかもしれない。沈黙することすらひとつのメッセージになってしまう。

    SNSは、別れた後の恋人たちをアーカイブし続けることで、恋愛に対して新しい角度でスポットライトを当ててしまった。『恋人ができたんだ』はこの時代に生まれた、そんな新しい恋愛の機微を切り取った、同時代性のあるラブソングである。

    この歌が椎木知仁の実体験にもとづいているかどうかは分からない。いやおそらくそうではないだろう。なぜならあまりにリアルだからだ。

    リアルで写実的な描写を持ち込んだ理由は、生活感を持ち込みたかったからだ。別れた恋人を想う歌、という平凡なテーマを、現代の若者の当たり前の生活感で描けば、それが新奇性のあるラブソングになる。椎木知仁はそんな風にして、平凡なテーマを新しいラブソングに仕上げるソングライターなのだと思う。
    『SNS時代のラブソング』 を詳しく ≫
  • フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、

    "いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)"

    ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。

    私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった。当時からこの曲には特別な存在感があったが、人気はその後も加速し、遂にはこの曲のみで構成されたトリビュートアルバムがリリースされるまでに至った。スターダムにのし上がったことはなくても、確固たる人気をキープしていたフラカンだが、ここにきて新しい波がきていた。そのピークはデビュー20年にして初の武道館ワンマン公演だ。

    曲を聴く前から、『ハイエース』が『深夜高速』の系譜にあることはわかった。フラワーカンパニーズのメンバーはハイエースに乗って真昼の高速も深夜の高速も走り抜け、日本全国を旅したのだろう。ひとつの車にメンバーやスタッフが乗り、永遠とも言える、楽しく、退屈な時間を過ごしたのだろう。そんな自分たちのやってきたことを、振り返り、自嘲しながらも、間違っていなかったと、これからもそうしていくのだと、再確認する決意の歌だ。つまり『ハイエース』の主人公はフラワーカンパニーズだ。

    正解。歌詞世界の面で、私の予想は一ミリもずれていなかった。いつから聴いてると思ってるんだ。楽曲面では二点、良い意味で裏切られた。鮮やかなテンポチェンジが大胆で格好良かったことと、竹安のぎこちない掛け声だ。

    それにしても、この自分の物語を歌う『深夜高速』『ハイエース』の系譜。フラカンを解き明かす上で、もっとピックアップされるべきだと思う。この傾向は最近とくに色濃くなっている。『消えぞこない』も同じタイプだ。

    これらの楽曲は、フラワーカンパニーズというバンドのキャラクターやストーリーを知っていることで真に響いてくる。歌っている鈴木圭介を見て、歌詞を書いたときの彼の思いを探し出す。長年のファンはそうやって歌とバンドを紡ぎ合わせて、より強固な唯一無二のリスニング体験を仕立てていく。どのバンドでも少なからずあることだが、フラワーカンパニーズの場合、その回帰的とも言えるストーリーテリングが彼らのロックの核でさえあると捉えて良いと私は思う。回帰系ロックとでも呼ぼうか。

    こうなってくると、キャリアを積めば積むほど参照されるバンドの物語が強化され、新曲の重みが増していく。

    近年は、"メンバーチェンジなし!活動休止なし!ヒット曲なし!"と堂々と謳い、なんとも情けないネーミングの自主レーベル、チキン・スキン・レコードを立ち上げている。とどまることを知らない自己参照だ。自虐でありながら、それを誇る。泥臭い自分たちを創作の源とする。近年の再評価は、この芸風と、積み重ねた実績がいよいよ噛み合ってきたことを感じさせるものだ。

    ロックは落ちこぼれの音楽だ。"ヒット曲なし!"と叫んで尚武道館までリスナーがついてくるに至ったここからは、ある意味では本当のロックがはじまりつつあるのかもしれない。
    『深夜高速の系譜 回帰系ロック』 を詳しく ≫
  • ヘビーでポップでオルタナティヴ。曲が良い。トライアンパサンディの楽曲は粒ぞろいだ。それもそのはず、ボーカルのG-YUNcoSANDYは、GOLLBETTYとしてトイズファクトリーから若くしてメジャーデビューしている。

    トライアンパサンディは、巷によくある、かわいくて格好良いバンドではないようだ。『カガミヨカガミ』での出だしのビターな歌メロのリフレイン、主張しすぎないギターリフ、声へのエフェクト。このパートはサビではないのに、サビのように聴かせる。とにかく曲のセンスが良いという印象。

    その後のAメロも良い。ラウドな開放感ですべるように展開していくと思いきや、歪んだキックとボーカルで無防備になって良質なブレーキ。そして、間髪いれずにブリッジミュートを効かせて冒頭と同じメロディへ。

    フェス受けしそうなハッピーなパーティー感もちゃんとある一方で、最後の最後ではじけきらないコシの太さが楽曲にある。アナログで渋い。歌ものになりきらないのにポップ。今時のバンドに珍しいバランスの良さがある。


    その秘密のひとつはどうやら作曲手法にあるようだ。彼らは、メロディでも歌詞でもなく、オケからつくることが多いそうだ。シンセとバンドががっつり絡む音楽性を持つバンドは、結局のところサビでブチ上げてシンガロングを叩き出すことを楽曲制作の目標にしている場合が多いようにみえる。

    その点、トライアンパサンディは違う。以前、G-YUNcoSANDYはインタビューで明確に次のように言っている。


    「ただ、“踊れる、のれる、あがる音楽!”というだけの音楽にはなりたくなかった」


    彼らの音楽があがりきらないのは確信犯である。
    踊って、のって、あがるだけではない何か。
    それを掴むために、シンガロングを目論んだメロディをでっち上げるより先に、オケをつくる必要があった。私はそう結論づけたい。展開と構成とコード(ハーモニー)とリズム、これらの妙が音楽の豊かさであり、それを駆使してトライアンパサンディはその曲で表現したいものを形にする。

    オケ先行ゆえに、歌メロは後手に回り、制約される。そのために、逆説的に他バンドと一線を画すオルタナティヴなメロディを産んでいることも見落とせない。


    もうひとつ、彼らのハイセンスを裏付けるのは、G-YUNcoSANDYがそもそもスカパンク畑の人間だったことだ。トライアンパサンディでは、表面こそエレクトロになったが、良い意味で軽さのあるパンキッシュなアレンジの遺伝子が引き継がれている。
    女性ボーカルのロックバンドには、下手にメタル風な重いギターをフィーチャーしたリフやソロで背伸びしているものが多々ある。彼女たちは、格好良さ、というベクトルへの拘りがあるのだ。気持ちはわかる。でもラウドであることは格好良いことではないのだ。
    トライアンパサンディにはそういった気負いがない。G-YUNcoSANDYがパンクを知っているからだ。


    サビでメロディはひとときの開放感につつまれるが、「宣戦布告しなきゃね」でキリッとそれを畳む。何メロなのかラップなのか良くわからないパートを挟み、再びサビではないサビへ。


    "カガミヨカガミさあ答えてめくるめく未来をおしえて
    カガミヨカガミさあ答えてめくらます世界で"


    このリフレインがなんとも使い勝手の良いフックになり、自由な曲展開を生み出している。その後も最後まで、読めない展開がいとも自然に展開する。

    個人的には作曲面でのブレーンがいるのかどうか気になるところ。もしいるのだとしたらその人のルーツはいかなるものなのだろうか。また、元ベーシストがバンドのアレンジャーに転身したというのも面白い。良いタイアップがつけばひとっ飛びでトップシーンで見かけるようになりそうだが、果たしていかがなものか。
    『歌ものになりきらないのにポップ』 を詳しく ≫
  • 美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。

    コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。

    その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンクバンドときた。曲も良い。演奏も良い。ルックスも良い。若い。大人のバックアップを看破できれば、むしろそのプロフェッショナルなプロダクションを愛せたかもしれないけど、それもできないから、私はただこのバンドを深追いするのを辞めた。私は信じられなかったのだ。そして許せなかったのだ。こんな若く美しい男性たちが、それに到底似合わない本物の音楽に、自然と出会い自然と惹かれたという事実が。


    このバンドの司令塔は澤竜次である。
    良いギタリストはフォームで分かるが、澤竜次もそのご多分に漏れない。右手のポジショニングが柔らかく美しい。良いギタリストはネックを遊ばせる。しなやかに傾くストラトキャスターを見てるだけでこちらの気分も良くなってくる。良いギタリストは、つまり澤竜次は、歪みの深さを選ばず、複弦でも単弦でもぱりっと弾ける。ブルージーかつ破壊的、時々トリッキーな音作りは黒猫チェルシーのイメージに大きく寄与している。『サニー』でもリフにソロにと彼の良さが存分に顕れている。澤竜次のルーツはハードロックとジミ・ヘンドリクスのようだ。なるほど納得である。パンクが入り口でここまでの演奏力にたどり着く想像はなかなかできない。バンドがINUやスターリンと似てきたのは、日本語の歌との融合の結果であり、それは、引いては、黒猫チェルシーが渡辺大知のバンドであるただそれだけの帰結だったのだ。

    とはいえ、元来このバンドが澤竜次のバンドであったことを考えれば、合点がいくことも多い。華美な衣装はジミ・ヘンドリクスのサイケデリアであり、ガレージパンクな音も、種を明かされればハードロックだ。華がありすぎる渡辺大知をイチ抜けし、澤をフロントマンに置けば、バンドのルックスだってハードロックオタク集団に見えなくもない。しかしながら、その趣味的な世界に閉じこもらないところまでが澤の判断であることは留意したい。

    『サニー』において、作曲クレジットはバンド名だが、曲を引っ張っているのはやはり澤のギターだ。この時期は、澤についていくカタチで、渡辺大知が音楽性を深化させていく様がバンドに良いバランスを持ち込んでいる。リフ主体のイレギュラーな曲展開に制約された歌が、メロウでないのに異様にポップであるのは、異物同士を手探りでドッキングさせたときのマジック以外のなにものでもない。
    このバンドのポップネスは、澤がひっぱる研究家肌の楽器隊と、ミーハーな天才肌である渡辺との怪しいバランスが成立させ、成長させてきた。『サニー』はその幸福な関係が最良のカタチで具現化した時期の、彼らの代表曲だと思う。


    ところで最近はすっかり渡辺のバンドなので、また様相が変わっている。と言った捉え方はかなり乱暴だが、澤が自身の趣味性をFAIRY BRENDAという別バンドで発揮しはじめたのも示唆的だ。黒猫チェルシーは、より歌ものにシフトし、バンド自体の物語を歌うようになった。ドッキングを繰り返した異物たちは、遂に整理整頓され、収まるべき所に収まったと言える。黒猫チェルシーが幸福でユニークだったのは、整理整頓されないままの有り様を作品にできる環境を手にしていたことにある。それゆえの歪さが、私のような者の変な誤解を産んだが、一方で産み落とされた作品は永遠だ。これらの作品たちは、過大でも過小でもない評価に時間をかけて辿り着くだろう。個人的にも、ギタリスト澤のFAIRY BRENDAとともに、黒猫チェルシーの新時代と新解釈に出会い続けるつもりである。
    『過大でも過小でもない評価に』 を詳しく ≫
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  • RT @gotch_akg: 僕は今、もうひとつ社会人のバンドと一緒に録音をしてる。メンバーは同い年。休みがバラバラだから、ゆっくりとしたペースで。インディーズレーベルを主宰するのは学生からの夢のひとつだった。いつしか僕は働きながら音楽をする人たちの手助けをしたいと思った。まあ… by @ZeroBeat_BOT