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RANDOM MUSICランダムおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • サママ・フェスティバル!

    Mrs. GREEN APPLE

    ハイトーンヴォイス。童顔。リードを分け合うソロ。裏声。カラフルなMV。子供。目線。ダンス。メンバーのダンス。子供のダンス。サンサン太陽。ギラギラ浴びて。イェイイェイイェ。ハタチでのメジャーデビュー。 このバンドの青写真を最初に思い描いたのは、誰なのだろうか。バンド自身なのか、フロントマン大森元貴なのか、テアトルアカデミーなのか。 所属事務所のテアトルアカデミーが、主にタレントの養成を行

  • ソレデモシタイ

    平井 堅

    平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。 平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へ

  • STARTING NOW!

    水樹奈々

    アニソン界の覇権を握ったまま長いが、そのボーカルスタイルはアニメ声とは程遠い。当初から、声優ではなく本格的な歌手を志していた背景からして後続とは一線を画している。 『STARTING NOW!』はストイックでハードなロックサウンドがかっこいい。 水樹奈々の十八番といえるこのスタイル。無論、歌唱技術には余裕しか感じない。 ハードロック出自のヘヴィーな楽器隊とポップなボーカルの対比は、Jud

  • Be Noble

    ぼくのりりっくのぼうよみ

    音楽業界という謎の機関による絶賛を除いて、「ぼくのりりっくのぼうよみ」が絶賛されているところを見たことがない。 いきなり口がわるく申し訳ないがぼくはそう思う。 ただ、ぼくにとって音楽業界という謎の機関は、芸能関係者という謎の関係者と同じくらい情報に通じているという認識なので、ぼくは絶大な信頼を置いている。 だから、ぼくは「ぼくのりりっくのぼうよみ」を全面的に信頼している。もしも「ぼく

  • デストピア

    GLAY

    GLAYの記憶は小学三年生の頃まで遡る。 クラスメイトの女の子が大ファンだった。 KinKiKidsではどっち派?みたいなノリで、GLAYでは誰派?といった会話がクラスでなされていたのは彼女の影響だった。音楽なんてかけらも興味なかった私だから、それでも誰一人名前を覚えられなかった。そして、その子はその年に転校してしまうことになる。 私にとってGLAYは一度そこで終わる。 次は大

  • 最&高

    きゃりーぱみゅぱみゅ

    楽しいながらも落ち着きのある普通に良い曲。サビは「さぁいえんこぅ!」の語感一発で、こてこてになりがちなジャンルの中で逆に整然としたものを感じる。青文字系という文脈抜きにきゃりーぱみゅぱみゅは語れないが、この曲では"泣かない負けないうろたえない 宴会じみてる毎日に"という歌詞にその世界観がギュウギュウに詰まっている。 ゴールを設定しそこに積み上げる毎日を丁寧に暮らすのではなく、宴会じみてる毎日

  • ハッピーエンド

    back number

    Mr.Children、コブクロ。 わかる。わかるよ、清水依与吏。 back numberが先達から非常に強い影響を受けているのがわかる。 いや、影響という言い方は間違っているかもしれない。 それは、遺伝に近い。 ハッピーエンドは、ドラマティックなバラードである。 他のback numberのバラードと同じように。 日本人好みのメロディライン、切ない恋心の歌詞。 ストリング

RANDOM REVIEWランダムレビューから音楽をみつける

  • 私事ですが、父が『いきものがかり』を好きなようだ。
    70年代に10代の大半をすごし、EAGLESの大ファンを自認する古き良きロックオヤジである父だが、根っこはミーハーな人間で、ここ十年弱は家族の誰よりもAKBに詳しい日々を過ごしている。けなげな女の子に騙されるタイプのようで、例によって吉岡聖恵の素朴な佇まいにやられた口だ。PVのストーリー、吉岡聖恵、ブレス、裏声、ストリングス、吉岡聖恵、練られた譜割り、メロディ、吉岡聖恵。どのシングルを切り取っても裏切らない、卵のような安定感が、『ラストシーン』にも健在だ。

    さて、水野良樹である。作詞作曲を担当するリーダー。それ以上の認識を彼に対して抱いたのは、ライターの柴那典なんかとTwitterで一時期よく絡んでいるところを見てからだ。

    なるほど、水野良樹は芸能人ではない。
    音楽業界の現状に対する、地に足の着いた、聡明な、一方で至極当たり前な言葉を発する常識人だった。
    いきものがかりのような、言ってしまえば小奇麗なユニットに属しておきながら、なんのフィルターを通さず、当たり前なことを当たり前に喋っているのが意外だった。

    彼を知れば、楽曲は逆算されて面白くなる。

    例えば、いきものがかりは良いユニットだが、果たしてそれは水野良樹の音楽的探究心に答えているのだろうか。余計なお世話が過ぎることは百も承知である。
    インディー界隈では彼ほどの知恵のないバンドだってセールスとバンドへの利益配分の関係をうまく調整して食えていたりする。
    ポップとコアの境目でバランスをとる余地は十分あるのに、いきものがかりがどうしてあれほど安全圏にいるのだろうか。余計なお世話が過ぎることは百も承知である。ただ、私なら彼のマインドセットの所在を妄想することで、いきものがかりの楽曲ははいかようにでも面白く聴くことができる。

    人工知能が「Beatlesっぽい曲」というお題で取り組んだ作曲のクオリティが高くて話題になった。
    では、もしも人工知能に「Jポップのバラード」というお題を出したらどうなるだろうか。
    私には『ラストシーン』のような曲が出来上がってくるように思える。そのくらい『ラストシーン』はJポップのバラードのつぼを抑えている。水野良樹ならBeatlesに擬態した曲だってつくれるだろう。Jポップに擬態した曲がつくれるように。

    水野良樹は人工知能なのだろうか。吉岡聖恵が危ない橋を渡る姿はとても魅力的だと思うのですが、いかがでしょうか人間の水野さん。
    『人工知能と水野良樹のバラード』 を詳しく ≫
  • 平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。

    平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へのユニークなアプローチだろう。

    『ソレデモシタイ』は、そのタイトルを見た瞬間からして、彼のソッチ方面のアレが来たな!と悟ったものだ。

    Jポップにおいて、性の隠喩や直喩はもはや珍しいものではない。それは表現の自由という意味では喜ばしい状況だが、一方で、性について描かれてしまったときの違和感や、背徳感、ドキドキ感に全くアプローチできていない、カタチだけの過激な歌詞も多く存在する。

    その有象無象置き去りにするようにして、平井堅のエロティックは、むしろキャリアを重ねるごとに尖っていっているように私は感じる。丸くなったなと思った頃に、読めないことを仕掛けてくる。十年強、見るともなしに邦楽チャートに張り付いていた私にとって、平井堅はそういう男だ。

    平井堅のエロティックが凡百のソレとは異なる理由は、関心の矛先が微妙に違うからである。『ソレデモシタイ』の歌詞を見てみよう。


    "あなたは決して使わないのよ アタシの好きなボディーソープを
    シャワーでさらっと流すだけなの アタシを持ち帰らない為に"


    "無味無臭で ただいまって 正しい愛を抱きしめるのね
    減らないのよ ボディーソープ アタシの心が減ってくだけ"


    これは不倫の歌だ。語り手の"アタシ"の家に男は来ている。男には家庭があり、不倫相手の"アタシ"よりも家庭を大切にする。なぜなら、ボディーソープを使って違う匂いを身にまとうことすら注意深く避けるからだ。男は"どっかで冷やかで自信家な男"であり、冷静にリスクを回避する。冷静であるということは、"アタシ"に溺れていないということだ。

    平井堅楽曲のエロスは、過激さの意匠でも、欲望と正対する文学でもない。雰囲気である。

    『ソレデモシタイ』においても、むんむんと立ち上るリアルかつフィクショナルな雰囲気こそが、映画のワンシーンのようにリスナーにまとわりつき、ジェントルでスマートな楽曲にざらついた手触りを導入している。逆に言えば、そこには雰囲気しかない。性のよろこびでもかなしみでも開放でも抑圧でも現実でも理想でもなく、雰囲気。性の存在する雰囲気。これが平井堅の圧倒的な個性であり、稀有な魅力だ。

    それが雰囲気だからこそ、そこには多様な引き出しがあり、気付かされることが多い。性の雰囲気は無限だし、男女のシチュエーションは無限だからだ。安心して聴ける面もある。雰囲気とは性、それ自体ではないからだ。


    それでは、そのユニークな歌詞世界はどこからくるのか。
    この問に本気で踏み込むなら、彼自身のセクシュアリティを研究しようとしなければならないだろう。しかしそれは無理な話だ。今回は、作詞家としての平井堅は、彼の内面から誕生したものではなく、彼の音楽家としての資質とボーカリストとしての資質が先立つカタチで、後天的に導かれたものだという説を唱えたい。

    どういうことか。
    作曲家、アイデアマンとしての平井堅は比較的スマートに闘う。彼にとって、狙ったダサさはOKでも、必死なダサさはNGだ。遊び心を差し引いても、バックトラックの完成度は常に高水準を維持している。いじわるに言えば、美しいだけの音楽をつくるのはお手の物だというわけだ。しかし、アーティスト平井堅はそれだけじゃダメだということを知っていた。出来杉君は主人公になれない。だから何らかの方法で隙を見せ、人間臭さを出す必要があった。完成した楽曲の調和を崩す役割を担わせるために、その独特な歌詞世界を平井堅は生み出した。それは戦略であり、バランスだった。以上仮説その一。

    エロティックなアプローチの中でも、とりわけ雰囲気、シチュエーションを重視するその嗜好は、自分自身の声に触発され続けることで形成されたものなのではないかと考えてみたい。平井堅の声には色気がある。いわゆる美声というやつだ。第二次性徴期において、身体の変化とアイデンティティの形成が不可分であるように、自分の身体や自分の声から、平井堅が表現としてのエロスを感じ取ったとしたら。もちろん単純化するつもりはない。しかしその独特な性へのアプローチにバックグラウンドを見出すとしたら、私は彼自身の声が先だったのだと考えてみたいのだ。もちろん、声が持つ色気と自己イメージには当初はギャップがあったかもしれない。とはいえ、アーティストにとってはその不調和すらも作家性へと昇華する対象となる。女性視点の作詞という武器も、そのひとつの帰結かもしれない。
    そして表現を重ねる過程で、性という武器をあらためて内面化し、意識的に使いこなしていく。さらにはその武器は本人が思った以上に探求のしがいがあり、需要のあるものであった。以上が仮説その二だ。
    念を入れる必要はないかもしれないが、これはあくまで妄想である。


    最後に、作曲はDivine Brown, Aileen De La Cruz, Adam Royceというクレジットになっている。本人の手がけた曲ではなく、コンペで選ばれたという。これがまた良い。

    PV?
    インドの話はいまさらするまでもないだろう。
    『性へのユニークなアプローチの源泉』 を詳しく ≫
  • 音楽業界という謎の機関による絶賛を除いて、「ぼくのりりっくのぼうよみ」が絶賛されているところを見たことがない。

    いきなり口がわるく申し訳ないがぼくはそう思う。
    ただ、ぼくにとって音楽業界という謎の機関は、芸能関係者という謎の関係者と同じくらい情報に通じているという認識なので、ぼくは絶大な信頼を置いている。

    だから、ぼくは「ぼくのりりっくのぼうよみ」を全面的に信頼している。もしも「ぼくのりりっくのぼうよみ」をぼくが好きにならなかったらそれはぼくが間違っている。ぼくにとって音楽業界というのはそういう存在なのだ。

    『Be Noble』をぼくは聴いてみた。
    ぼくにはこの曲の良さが分かるはずだ。
    わかるぞ。わかる。これはすごい曲だ。
    例えば歌詞だ。音楽業界がいつも「ぼくのりりっくのぼうよみ」の歌詞を絶賛していることをぼくは知っている。


    "盤上の広がる森羅万象"

    "どうせ全部蜃気楼と大差ない選民思想"

    "此処にいる意味のために what I do without u"

    "叱りつけて前へ進む 進む let mi know"


    とても難しい言葉が並んでいてぼくにはあんまり理解できないが、「ぼくりり」がとても難しいことを考えていて、それを芸術的に表現していることがわかる。英単語も学校では習わないものがつかわれていることを指摘しておきたい。


    次に、トラックだ。
    一聴しただけではトラックというやつが何なのかぼくはよくわからないが、大きい車か、運動場のどちらかであることは間違いない。
    いや、落ち着いて考えよう。「ぼくりり」のことだから、その二つの意味を掛けているのかもしれない。
    すごい。なんて、天才的なんだ。
    ぼくも音楽業界と同感である。
    「ぼくのりりっくのぼうよみ」はトラックが抜群に良い。


    そしてラップだ。
    「ぼくのりりっくのぼうよみ」はラッパーなのだ。ラッパの技術では右に出るものはいない。『Be Noble』でも最高のラップを聴かせてくれる。ぼくはまるで歌のようだと思った。BUMP OF CHICKENの声のようなラッパを吹くものだと感心した。


    最後に「ぼくのりりっくのぼうよみ」は頭が良い。
    音楽業界は彼の頭の良さを積極的に指摘している。頭が良いことは音楽家にとって特筆すべきことだ。ぼくたちは「ぼくのりりっくのぼうよみ」のCDを聴くと同じくらい、彼のインタビューをインターネットで読むべきだ。東大に落ちたらしいが、東大を受けたということは東大に受かることと同じくらいすごいことなのだとぼくは思う。


    頭が良く進歩的な「ぼくりり」は2ndアルバムのタイトルを冠した『NOAH’S ARK』というオウンドメディアを立ち上げた。ぼくはこれを素直にすごいと思う。その理念の一部を次に引用する。


    "あふれる情報の洪水に流されることなく、きちんとものごとを考え、この世界で生きていくためには何をすればいいのか"


    Twitterでは、それをふまえて次のようなTweetをしている。


    "評論家の方々が書かれている、意味わかんないけどいい感じにみえる抽象的で曖昧な言説って、いま氾濫してるノイズのひとつだと思うんですよね 無意味
    で、そういうのに惑わされないような力をみんなが持ってる方が楽しい世界になるな、と思って今回メディアをはじめました"


    宛先は、評論家の宇野維正だ。ぼくも「ぼくりり」に同感だ。ぼくも新しい音楽を抽象的に、曖昧に褒めて、流行に流されながら新しいシーンをパズルして、音楽に価値をあたえた気になっている、歌も歌えない音楽評論家と音楽業界がだいきらいだ。
    『音楽業界と音楽評論とぼくとぼくりり』 を詳しく ≫
  • つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。
    このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。

    リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。
    なんてダーティーなんだろう。
    単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。
    そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。
    その両方に火炎放射を浴びせて焚き付けるようにのたうち回るギター。

    バックトラックだけを聴けば、ビジュアルイメージさえも、ウルフルズのパブリックイメージとは違う、ダーティーで硬派なルックスが浮かび上がってくるはずだ。

    バンドにとって、ボーカルが花だとすれば、楽器隊はさしずめ花瓶である。仮に花を取り外して、花瓶としての美しさ、かっこよさ、丈夫さを評価してみれば、世のバンド界隈には、いまと全く違った素敵な世界が広がっているかもしれない。ウルフルケイスケ、ジョン・B、サンコンJr.がつくる模様のないタイトな花瓶は、そんな可能性を妄想させてくれる。

    さて、そんな最高の花瓶に生けられているにも関わらず、すべてを持っていってしまうトータス松本には何があるのか。

    ひとつ提案したいのは、ボーカリスト俳優説だ。
    古今東西、ロックバンドのボーカリストが、一定のキャリアを積んだ上で俳優業を掛け持つ例が後を絶たない。トータス松本も然り。無論、楽器隊より人気が出やすいこと、ソングライターであれば俳優業にも通じるクリエイティビティを潜在する場合が多いことなどの条件もあるが、そもそもボーカルとは喋るパフォーマーであることを忘れてはならない。つまるところ、技術的にボーカルと俳優は近似しているのだ。

    トータス松本は、喋るパフォーマーとしての俳優力が高い。
    演劇の世界では、小道具大道具を用意せず、あえて喋りのみで情景描写や世界観を表現するスタイルが一般的に存在する。それは演技の持つ可能性を最大限に楽しめる、まさに演劇の真骨頂だ。その空間では、言葉とアクションだけで場のすべてを持っていく使命が俳優に課されている。

    ある種のボーカリストの持つ驚異的な空間掌握力はその使命の達成に近い。
    声が良い。顔が派手。しなやかな身体。個別の要素を挙げればいくらでも褒められる。しかし、俳優が観客に情景を見せるために注ぎ込まれるエネルギーは、決して個別の要素の能力値では測れない。
    文字通り前身をフルに駆使する。セリフのピッチは勿論のこと、瞬きひとつ繊細に研ぎ澄まされた、総合芸術だ。

    ボーカリストは総合芸術である。そしてトータス松本は歌のうまい花ではなく、最高の花瓶に刺さった最高の俳優だ。"スポーティパーティ"のリフレインと対になるBメロの、アドリブのように不定形で切迫したボーカルワークを聴けばその怪演に胸を打たれずにはいられない。
    『最高の花瓶とボーカリスト俳優説』 を詳しく ≫

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  • ソレデモシタイ

    平井 堅

    平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。 平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へ

  • スポーティパーティ

    ウルフルズ

    つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。 このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。 リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。 なんてダーティーなんだろう。 単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。 そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。 そ

  • Be Noble

    ぼくのりりっくのぼうよみ

    音楽業界という謎の機関による絶賛を除いて、「ぼくのりりっくのぼうよみ」が絶賛されているところを見たことがない。 いきなり口がわるく申し訳ないがぼくはそう思う。 ただ、ぼくにとって音楽業界という謎の機関は、芸能関係者という謎の関係者と同じくらい情報に通じているという認識なので、ぼくは絶大な信頼を置いている。 だから、ぼくは「ぼくのりりっくのぼうよみ」を全面的に信頼している。もしも「ぼく

  • 恋をしたのは

    aiko

    aikoはメロディとコードが面白い。 それはよく言われていることだ。 『恋をしたのは』はコンセプチュアルなロングトーンや、イレギュラーな展開を取り入れた曲だ。一度きりの大サビのために、aikoは確信犯的に楽曲をセーブしている。遊んでいるなあと思う。曲で。とても実験的な曲だが、それをポップスとして組み立てる接着剤になっているのは、変幻自在なコード感とそれに溶け込んだメロディだ。aikoのメロ

  • デストピア

    GLAY

    GLAYの記憶は小学三年生の頃まで遡る。 クラスメイトの女の子が大ファンだった。 KinKiKidsではどっち派?みたいなノリで、GLAYでは誰派?といった会話がクラスでなされていたのは彼女の影響だった。音楽なんてかけらも興味なかった私だから、それでも誰一人名前を覚えられなかった。そして、その子はその年に転校してしまうことになる。 私にとってGLAYは一度そこで終わる。 次は大

  • Good New Times

    Gotch

    バンドマンのソロを聴くのは好きだ。 その人が、バンドとソロ、公と私をどのように分断するのか。 その境目をどの地点に置くか。音なのか、歌詞なのか。仕事と趣味なのか。 一番好きなジャンルと、二番目に好きなジャンルなのか。 それまでのバンド作品では、プライベートな音楽を鳴らしていたのか。 そうではなかったのか。 ソロ作品をリリースするとたくさんのことが見えてくる。 『Good

  • ハッピーエンド

    back number

    Mr.Children、コブクロ。 わかる。わかるよ、清水依与吏。 back numberが先達から非常に強い影響を受けているのがわかる。 いや、影響という言い方は間違っているかもしれない。 それは、遺伝に近い。 ハッピーエンドは、ドラマティックなバラードである。 他のback numberのバラードと同じように。 日本人好みのメロディライン、切ない恋心の歌詞。 ストリング

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  • 平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。

    平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へのユニークなアプローチだろう。

    『ソレデモシタイ』は、そのタイトルを見た瞬間からして、彼のソッチ方面のアレが来たな!と悟ったものだ。

    Jポップにおいて、性の隠喩や直喩はもはや珍しいものではない。それは表現の自由という意味では喜ばしい状況だが、一方で、性について描かれてしまったときの違和感や、背徳感、ドキドキ感に全くアプローチできていない、カタチだけの過激な歌詞も多く存在する。

    その有象無象置き去りにするようにして、平井堅のエロティックは、むしろキャリアを重ねるごとに尖っていっているように私は感じる。丸くなったなと思った頃に、読めないことを仕掛けてくる。十年強、見るともなしに邦楽チャートに張り付いていた私にとって、平井堅はそういう男だ。

    平井堅のエロティックが凡百のソレとは異なる理由は、関心の矛先が微妙に違うからである。『ソレデモシタイ』の歌詞を見てみよう。


    "あなたは決して使わないのよ アタシの好きなボディーソープを
    シャワーでさらっと流すだけなの アタシを持ち帰らない為に"


    "無味無臭で ただいまって 正しい愛を抱きしめるのね
    減らないのよ ボディーソープ アタシの心が減ってくだけ"


    これは不倫の歌だ。語り手の"アタシ"の家に男は来ている。男には家庭があり、不倫相手の"アタシ"よりも家庭を大切にする。なぜなら、ボディーソープを使って違う匂いを身にまとうことすら注意深く避けるからだ。男は"どっかで冷やかで自信家な男"であり、冷静にリスクを回避する。冷静であるということは、"アタシ"に溺れていないということだ。

    平井堅楽曲のエロスは、過激さの意匠でも、欲望と正対する文学でもない。雰囲気である。

    『ソレデモシタイ』においても、むんむんと立ち上るリアルかつフィクショナルな雰囲気こそが、映画のワンシーンのようにリスナーにまとわりつき、ジェントルでスマートな楽曲にざらついた手触りを導入している。逆に言えば、そこには雰囲気しかない。性のよろこびでもかなしみでも開放でも抑圧でも現実でも理想でもなく、雰囲気。性の存在する雰囲気。これが平井堅の圧倒的な個性であり、稀有な魅力だ。

    それが雰囲気だからこそ、そこには多様な引き出しがあり、気付かされることが多い。性の雰囲気は無限だし、男女のシチュエーションは無限だからだ。安心して聴ける面もある。雰囲気とは性、それ自体ではないからだ。


    それでは、そのユニークな歌詞世界はどこからくるのか。
    この問に本気で踏み込むなら、彼自身のセクシュアリティを研究しようとしなければならないだろう。しかしそれは無理な話だ。今回は、作詞家としての平井堅は、彼の内面から誕生したものではなく、彼の音楽家としての資質とボーカリストとしての資質が先立つカタチで、後天的に導かれたものだという説を唱えたい。

    どういうことか。
    作曲家、アイデアマンとしての平井堅は比較的スマートに闘う。彼にとって、狙ったダサさはOKでも、必死なダサさはNGだ。遊び心を差し引いても、バックトラックの完成度は常に高水準を維持している。いじわるに言えば、美しいだけの音楽をつくるのはお手の物だというわけだ。しかし、アーティスト平井堅はそれだけじゃダメだということを知っていた。出来杉君は主人公になれない。だから何らかの方法で隙を見せ、人間臭さを出す必要があった。完成した楽曲の調和を崩す役割を担わせるために、その独特な歌詞世界を平井堅は生み出した。それは戦略であり、バランスだった。以上仮説その一。

    エロティックなアプローチの中でも、とりわけ雰囲気、シチュエーションを重視するその嗜好は、自分自身の声に触発され続けることで形成されたものなのではないかと考えてみたい。平井堅の声には色気がある。いわゆる美声というやつだ。第二次性徴期において、身体の変化とアイデンティティの形成が不可分であるように、自分の身体や自分の声から、平井堅が表現としてのエロスを感じ取ったとしたら。もちろん単純化するつもりはない。しかしその独特な性へのアプローチにバックグラウンドを見出すとしたら、私は彼自身の声が先だったのだと考えてみたいのだ。もちろん、声が持つ色気と自己イメージには当初はギャップがあったかもしれない。とはいえ、アーティストにとってはその不調和すらも作家性へと昇華する対象となる。女性視点の作詞という武器も、そのひとつの帰結かもしれない。
    そして表現を重ねる過程で、性という武器をあらためて内面化し、意識的に使いこなしていく。さらにはその武器は本人が思った以上に探求のしがいがあり、需要のあるものであった。以上が仮説その二だ。
    念を入れる必要はないかもしれないが、これはあくまで妄想である。


    最後に、作曲はDivine Brown, Aileen De La Cruz, Adam Royceというクレジットになっている。本人の手がけた曲ではなく、コンペで選ばれたという。これがまた良い。

    PV?
    インドの話はいまさらするまでもないだろう。
    『性へのユニークなアプローチの源泉』 を詳しく ≫
  • つくづくバンドはボーカルが持っていくのだなと思う。
    このバンド。年季の入った本格ファンクサウンドなのに、トータス松本に華がありすぎて損してる。

    リフレインする"スポーティパーティ"のバックトラックのリフを聴いて欲しい。
    なんてダーティーなんだろう。
    単体でも成立するほどに太く、確実に前進する立体的なドラム。
    そのドラム戦車をこれまたごんぶとの手綱で後ろにひっぱってしまうベース。
    その両方に火炎放射を浴びせて焚き付けるようにのたうち回るギター。

    バックトラックだけを聴けば、ビジュアルイメージさえも、ウルフルズのパブリックイメージとは違う、ダーティーで硬派なルックスが浮かび上がってくるはずだ。

    バンドにとって、ボーカルが花だとすれば、楽器隊はさしずめ花瓶である。仮に花を取り外して、花瓶としての美しさ、かっこよさ、丈夫さを評価してみれば、世のバンド界隈には、いまと全く違った素敵な世界が広がっているかもしれない。ウルフルケイスケ、ジョン・B、サンコンJr.がつくる模様のないタイトな花瓶は、そんな可能性を妄想させてくれる。

    さて、そんな最高の花瓶に生けられているにも関わらず、すべてを持っていってしまうトータス松本には何があるのか。

    ひとつ提案したいのは、ボーカリスト俳優説だ。
    古今東西、ロックバンドのボーカリストが、一定のキャリアを積んだ上で俳優業を掛け持つ例が後を絶たない。トータス松本も然り。無論、楽器隊より人気が出やすいこと、ソングライターであれば俳優業にも通じるクリエイティビティを潜在する場合が多いことなどの条件もあるが、そもそもボーカルとは喋るパフォーマーであることを忘れてはならない。つまるところ、技術的にボーカルと俳優は近似しているのだ。

    トータス松本は、喋るパフォーマーとしての俳優力が高い。
    演劇の世界では、小道具大道具を用意せず、あえて喋りのみで情景描写や世界観を表現するスタイルが一般的に存在する。それは演技の持つ可能性を最大限に楽しめる、まさに演劇の真骨頂だ。その空間では、言葉とアクションだけで場のすべてを持っていく使命が俳優に課されている。

    ある種のボーカリストの持つ驚異的な空間掌握力はその使命の達成に近い。
    声が良い。顔が派手。しなやかな身体。個別の要素を挙げればいくらでも褒められる。しかし、俳優が観客に情景を見せるために注ぎ込まれるエネルギーは、決して個別の要素の能力値では測れない。
    文字通り前身をフルに駆使する。セリフのピッチは勿論のこと、瞬きひとつ繊細に研ぎ澄まされた、総合芸術だ。

    ボーカリストは総合芸術である。そしてトータス松本は歌のうまい花ではなく、最高の花瓶に刺さった最高の俳優だ。"スポーティパーティ"のリフレインと対になるBメロの、アドリブのように不定形で切迫したボーカルワークを聴けばその怪演に胸を打たれずにはいられない。
    『最高の花瓶とボーカリスト俳優説』 を詳しく ≫
  • 音楽業界という謎の機関による絶賛を除いて、「ぼくのりりっくのぼうよみ」が絶賛されているところを見たことがない。

    いきなり口がわるく申し訳ないがぼくはそう思う。
    ただ、ぼくにとって音楽業界という謎の機関は、芸能関係者という謎の関係者と同じくらい情報に通じているという認識なので、ぼくは絶大な信頼を置いている。

    だから、ぼくは「ぼくのりりっくのぼうよみ」を全面的に信頼している。もしも「ぼくのりりっくのぼうよみ」をぼくが好きにならなかったらそれはぼくが間違っている。ぼくにとって音楽業界というのはそういう存在なのだ。

    『Be Noble』をぼくは聴いてみた。
    ぼくにはこの曲の良さが分かるはずだ。
    わかるぞ。わかる。これはすごい曲だ。
    例えば歌詞だ。音楽業界がいつも「ぼくのりりっくのぼうよみ」の歌詞を絶賛していることをぼくは知っている。


    "盤上の広がる森羅万象"

    "どうせ全部蜃気楼と大差ない選民思想"

    "此処にいる意味のために what I do without u"

    "叱りつけて前へ進む 進む let mi know"


    とても難しい言葉が並んでいてぼくにはあんまり理解できないが、「ぼくりり」がとても難しいことを考えていて、それを芸術的に表現していることがわかる。英単語も学校では習わないものがつかわれていることを指摘しておきたい。


    次に、トラックだ。
    一聴しただけではトラックというやつが何なのかぼくはよくわからないが、大きい車か、運動場のどちらかであることは間違いない。
    いや、落ち着いて考えよう。「ぼくりり」のことだから、その二つの意味を掛けているのかもしれない。
    すごい。なんて、天才的なんだ。
    ぼくも音楽業界と同感である。
    「ぼくのりりっくのぼうよみ」はトラックが抜群に良い。


    そしてラップだ。
    「ぼくのりりっくのぼうよみ」はラッパーなのだ。ラッパの技術では右に出るものはいない。『Be Noble』でも最高のラップを聴かせてくれる。ぼくはまるで歌のようだと思った。BUMP OF CHICKENの声のようなラッパを吹くものだと感心した。


    最後に「ぼくのりりっくのぼうよみ」は頭が良い。
    音楽業界は彼の頭の良さを積極的に指摘している。頭が良いことは音楽家にとって特筆すべきことだ。ぼくたちは「ぼくのりりっくのぼうよみ」のCDを聴くと同じくらい、彼のインタビューをインターネットで読むべきだ。東大に落ちたらしいが、東大を受けたということは東大に受かることと同じくらいすごいことなのだとぼくは思う。


    頭が良く進歩的な「ぼくりり」は2ndアルバムのタイトルを冠した『NOAH’S ARK』というオウンドメディアを立ち上げた。ぼくはこれを素直にすごいと思う。その理念の一部を次に引用する。


    "あふれる情報の洪水に流されることなく、きちんとものごとを考え、この世界で生きていくためには何をすればいいのか"


    Twitterでは、それをふまえて次のようなTweetをしている。


    "評論家の方々が書かれている、意味わかんないけどいい感じにみえる抽象的で曖昧な言説って、いま氾濫してるノイズのひとつだと思うんですよね 無意味
    で、そういうのに惑わされないような力をみんなが持ってる方が楽しい世界になるな、と思って今回メディアをはじめました"


    宛先は、評論家の宇野維正だ。ぼくも「ぼくりり」に同感だ。ぼくも新しい音楽を抽象的に、曖昧に褒めて、流行に流されながら新しいシーンをパズルして、音楽に価値をあたえた気になっている、歌も歌えない音楽評論家と音楽業界がだいきらいだ。
    『音楽業界と音楽評論とぼくとぼくりり』 を詳しく ≫
  • aikoはメロディとコードが面白い。
    それはよく言われていることだ。

    『恋をしたのは』はコンセプチュアルなロングトーンや、イレギュラーな展開を取り入れた曲だ。一度きりの大サビのために、aikoは確信犯的に楽曲をセーブしている。遊んでいるなあと思う。曲で。とても実験的な曲だが、それをポップスとして組み立てる接着剤になっているのは、変幻自在なコード感とそれに溶け込んだメロディだ。aikoのメロディを成り立たせているのは自由なコード進行である。違和感と納得感の狭間にあるコード感。リスナーの耳を違和感で引っ掛けつつ、強引に納得感に持っていくコード進行。

    『カブトムシ』には驚いた。


    "生涯忘れることはないでしょう"


    ご存知、サビの最後のキメのフレーズだ。
    その頭のコードがAmになっている。曲のキーはD#だ。なんということだろう。曲の最大のピークになる決め所で、曲中最も違和感のあるコードを使っている。これはとても勇気のいることである。そこからAm→G#6→Gm7→F#6→Fm7と、ベースラインがきっかり半音刻みで下降する。
    わかりやすく半音下げてみる。キーはD。すると、G#m→G6→F#m7→F6→Em7だ。
    G#mはDに対するドミナントマイナー(5度)をさらに半音♭(フラット)している。これが和声学的にどう命名されているか調べたがわからなかった。ご存じの方がいれば教えて欲しい。明らかなのは、彼女はかなり尖った、コードの使い手だということだ。

    『恋をしたのは』は『カブトムシ』ほどではないが、やはり、きっかり半音刻みのルート下降が使われている。aikoはキーボードで作曲する。推測だが鍵盤でコードをつくっていくとこういうことが自然におこりやすいのだと思う。ギターではこうはならない。あるコードから連なる次のコードを選ぶとき、身体的に楽な形がギターと鍵盤では違っているからだ。半音の動きが効き、ストイックでジャジーなAメロが良い。AikoのAメロはこのパターンが多く、ためのあるギターのカッティングがさり気なく効果的に使われているところも好きなところだ。


    aikoの優れたコード感には、鍵盤というアーキテクチャや本人の音楽的素養がもちろん起因するが、注目したいのが歌詞先行で曲作りをするという点だ。歌詞が先に出来上がれば当然曲作りには制限が生まれる。その制限とaikoの強引かつ自在なコード感はとても相性が良いように感じる。譜割りの制限とそれを強引に完成に持っていくコードが相互作用をおこし、魅力的なメロディとなって産み落とされる。良いサイクルが無自覚に成立しているのだと思う。平板かつスモーキーで甘いボーカルも良い塩梅で曲の凹凸を均していることも指摘しておきたい。

    その意味では、aikoが歌詞を重視することがなにより作曲家としてのaikoを活かしていると言える。aikoのアイデンティティと言える「恋愛」というテーマも然りだ。穿った見方をすれば、aikoの恋が落ち着きを見せ、歌詞ではなく曲先行でイマジネーションが生まれるとき、そこにはひどく無難で冒険の無いメロディがある可能性だって無きにしもあらず。aikoにとって自身のプライベートの恋愛それ自体と、それを歌詞としてアウトプットすることが最大の関心事である限り、私たちは彼女のメロディを聴ける。aikoが生粋の恋愛体質であることは、aikoのメロディのクリエイティビティを高めるために備わった、まさに天賦の才能と言えるだろう。あえて、歌詞それ自体の分析は他に譲りたい。
    『恋愛体質は音楽の才能』 を詳しく ≫
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  • RT @gotch_akg: 日本に戻ったら、ドカンと8時間くらい寝たい。ずっと細切れの睡眠だから。そういうなかでも夢は見るもんで、トム・クルーズのアンビエントノイズバンドにギタリストとして参加して、偶発的なノイズを「それがいいからもう一回やれ」と無茶振りされまくって、困り果て… by @ZeroBeat_BOT