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RANDOM MUSICランダムおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • サニー

    黒猫チェルシー

    美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。 コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。 その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンク

  • Swan

    [Alexandros]

    なんでこんなに顔がかっこいいのか、という疑問に対して誰も何も答えてくれないバンドナンバーワン。 曲もかっこいい。電子ビートとフェイザー?感のある揺らしたボーカルによる淡々とした始まりからして、新参者のパブリックイメージの外側から攻めてくる。この感触はどこから引っ張ってきたアイデアなのか。ボーカルの録音とミックスが良いだけなのか。 ドラマティックなサビで泣かせるまでに至らず、すぐAメロに

  • Connect

    田口 淳之介

    田口淳之介は精悍になった。 KAT-TUN全盛期の頃は、ワイルドなグループにおいて、ブラウンのロングヘアーがナチュラルにカールしている、甘い微笑みの優男という印象だった。 『Connect』のMVでダンスする田口淳之介と、公式ホームページのビジュアルイメージは統一されていて、ともにこれ以上さっぱりしようがないくらいにさっぱりした男になっている。 無駄なものが削ぎ落とされたかっこよ

  • Nipponia Nippon

    SALU

    ナショナリズムってのはいつの時代も問題だと思うけれど、ここ最近はとくに悪い意味での存在感を増している。日本という国の素晴らしさを日本人に向けてアピールする人や、コンテンツ、メディアが増えた。そのどれもが、見ているこっちが恥ずかしいほど幼稚な内容にも関わらず、確かにそれに癒され、勇気づけられている人たちがいる。政治や経済での機能を除いて、国家というものがなぜ必要なのか、という問いに答えるのは難しい。

  • BLINKSTONEの真実を

    BIGMAMA

    金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。 無理もない。この人は持てる者だ。 まず普通に顔が格好良い。 そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。 BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は

RANDOM REVIEWランダムレビューから音楽をみつける

  • 美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。

    コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。

    その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンクバンドときた。曲も良い。演奏も良い。ルックスも良い。若い。大人のバックアップを看破できれば、むしろそのプロフェッショナルなプロダクションを愛せたかもしれないけど、それもできないから、私はただこのバンドを深追いするのを辞めた。私は信じられなかったのだ。そして許せなかったのだ。こんな若く美しい男性たちが、それに到底似合わない本物の音楽に、自然と出会い自然と惹かれたという事実が。


    このバンドの司令塔は澤竜次である。
    良いギタリストはフォームで分かるが、澤竜次もそのご多分に漏れない。右手のポジショニングが柔らかく美しい。良いギタリストはネックを遊ばせる。しなやかに傾くストラトキャスターを見てるだけでこちらの気分も良くなってくる。良いギタリストは、つまり澤竜次は、歪みの深さを選ばず、複弦でも単弦でもぱりっと弾ける。ブルージーかつ破壊的、時々トリッキーな音作りは黒猫チェルシーのイメージに大きく寄与している。『サニー』でもリフにソロにと彼の良さが存分に顕れている。澤竜次のルーツはハードロックとジミ・ヘンドリクスのようだ。なるほど納得である。パンクが入り口でここまでの演奏力にたどり着く想像はなかなかできない。バンドがINUやスターリンと似てきたのは、日本語の歌との融合の結果であり、それは、引いては、黒猫チェルシーが渡辺大知のバンドであるただそれだけの帰結だったのだ。

    とはいえ、元来このバンドが澤竜次のバンドであったことを考えれば、合点がいくことも多い。華美な衣装はジミ・ヘンドリクスのサイケデリアであり、ガレージパンクな音も、種を明かされればハードロックだ。華がありすぎる渡辺大知をイチ抜けし、澤をフロントマンに置けば、バンドのルックスだってハードロックオタク集団に見えなくもない。しかしながら、その趣味的な世界に閉じこもらないところまでが澤の判断であることは留意したい。

    『サニー』において、作曲クレジットはバンド名だが、曲を引っ張っているのはやはり澤のギターだ。この時期は、澤についていくカタチで、渡辺大知が音楽性を深化させていく様がバンドに良いバランスを持ち込んでいる。リフ主体のイレギュラーな曲展開に制約された歌が、メロウでないのに異様にポップであるのは、異物同士を手探りでドッキングさせたときのマジック以外のなにものでもない。
    このバンドのポップネスは、澤がひっぱる研究家肌の楽器隊と、ミーハーな天才肌である渡辺との怪しいバランスが成立させ、成長させてきた。『サニー』はその幸福な関係が最良のカタチで具現化した時期の、彼らの代表曲だと思う。


    ところで最近はすっかり渡辺のバンドなので、また様相が変わっている。と言った捉え方はかなり乱暴だが、澤が自身の趣味性をFAIRY BRENDAという別バンドで発揮しはじめたのも示唆的だ。黒猫チェルシーは、より歌ものにシフトし、バンド自体の物語を歌うようになった。ドッキングを繰り返した異物たちは、遂に整理整頓され、収まるべき所に収まったと言える。黒猫チェルシーが幸福でユニークだったのは、整理整頓されないままの有り様を作品にできる環境を手にしていたことにある。それゆえの歪さが、私のような者の変な誤解を産んだが、一方で産み落とされた作品は永遠だ。これらの作品たちは、過大でも過小でもない評価に時間をかけて辿り着くだろう。個人的にも、ギタリスト澤のFAIRY BRENDAとともに、黒猫チェルシーの新時代と新解釈に出会い続けるつもりである。
    『過大でも過小でもない評価に』 を詳しく ≫
  • なんでこんなに顔がかっこいいのか、という疑問に対して誰も何も答えてくれないバンドナンバーワン。

    曲もかっこいい。電子ビートとフェイザー?感のある揺らしたボーカルによる淡々とした始まりからして、新参者のパブリックイメージの外側から攻めてくる。この感触はどこから引っ張ってきたアイデアなのか。ボーカルの録音とミックスが良いだけなのか。

    ドラマティックなサビで泣かせるまでに至らず、すぐAメロに戻る。音数少ない16ビートが続く。ニクい。Cメロ、間奏、転調、こってりしないディストーションギター。ニクい。顔は美メロだが、ノイジーで、決して安易な媚びを感じさせない。ズバッと終わる。やりたいことをやっている。甘さ控えめ。何から何までニクい。人気あるだろうなあ、勘弁してほしいなあ、このバンド。
    『なんでこんなに顔がかっこいいのか』 を詳しく ≫
  • ナショナリズムってのはいつの時代も問題だと思うけれど、ここ最近はとくに悪い意味での存在感を増している。日本という国の素晴らしさを日本人に向けてアピールする人や、コンテンツ、メディアが増えた。そのどれもが、見ているこっちが恥ずかしいほど幼稚な内容にも関わらず、確かにそれに癒され、勇気づけられている人たちがいる。政治や経済での機能を除いて、国家というものがなぜ必要なのか、という問いに答えるのは難しい。それはとても難しい。しかし、そこにひとつのヒントを与えてくれるのは、上述のように癒やしや勇気を必要としている人が事実存在しているということだ。彼らにとって、生まれついた国家、あるいは民族が肯定されることは、最も手っ取り早く、最も信頼の置ける己の肯定なのだ。

    SALUは、ヒップホップ界においてとりわけ明るく爽やかな曲調が印象的だ。中性的なルックスや、かわいらしい声も光っている。魂を揺さぶる男らしいメッセージとそれを裏付ける荒くれた生き方をある意味では運命づけられるヒップホップの世界で、クン付けで呼ばれることに何の違和感もないラッパーはSALUくらいではなかろうか。

    しかしながら、SALUが人畜無害で大衆的なアーティストでないことはその曲を聴けばわかる。そのラッパー魂が最も溢れ出たのがこの『Nipponia Nippon』だろう。

    この曲は通り一遍の反社会的な音楽とは一線を画している。リリックが巧みである背景には、次のようなSALUの冷静な現況認識がある。


    "たまに本当に心配だよ日本
    いいんだけど"


    "わかってる 本当に複雑だってこと"


    "やりたいことだけやりたいとかそれ本気?
    状況を変えようともがいてる若者を
    裏がどうのゆとりがどうのと叩こうと
    こういうことを言えばまた政治的
    宗教的とか言われてももういいからすぐにやろうよ"


    Noを突きつけるのではなく、"心配"をする。そして"いいんだけど"と捉え直し、あくまで自分の実存と日本の心配に繋がりはないことを確認する。この態度は上述ような、勇気や癒やしを国に求めてしまうナショナリストとは対極の知的で冷静な態度だ。そして"本当に複雑だってこと"をしっかりと"わかってる"。威勢良く格好をつけて毒を吐いているんじゃない。それがSALUだ。

    他方で、"やりたいことだけやりたい"という一見ラジカルで本質的な態度にも、疑いの目を向ける。この問いかけはリスキーだ。なぜなら、"政治的 宗教的"と言われてしまうから。事実そういう目的で個人主義から全体主義へ煽動するアジテーターも存在する。SALUはそういうこともよく分かっている。

    こうしてリリックを見て分かるように、複数の立場、複数のイデオロギーを横断した上で、SALUの反社会的なメッセージは紡がれている。

    今敢えて日本について歌うことは、それ自体も非常にリスキーである。安易な応援歌と受け取られるリスクも、安易な社会批判と受け取られるリスクもある。軽やかな自由さがウリだったSALUにとってはアーティストとしてのイメージを損なうリスクもあった。それでもあらゆる立場をクールに見渡して、優しく、厳しく、"心配だよ"と心地良いラップにしたこの曲を私は真にラジカルで魅力的だと思う。


    最後にもう一つリリックを見てみよう。


    "俺には幸いこの声がある
    このラップがある"


    "俺には幸い
    会ったことのない同士がいる"


    "君には幸い俺がいる"


    ここで、SALUは"幸い"を歌っている。SALUが自己の実存の問題に揺さぶられず、冷静に社会を直視しラップにできる理由は、SALUには"幸い"があるからだ。

    ナショナリストは自国を肯定されることで、己の肯定を手に入れた。SALUを肯定するのは、"声"と"ラップ"と"同士"だ。そして私たちにはSALUがいるから、SALUのラップで己を肯定し"状況を変えようともがいて"みることができる。さすれば国には何も求めない強さを持ちながら、それでも国に働きかけ、国を変えることができるかもれない。
    『日本を心配するラップの心地良さ』 を詳しく ≫
  • 金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。
    無理もない。この人は持てる者だ。


    まず普通に顔が格好良い。
    そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。

    BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は、金井のこうした育ちの良さが大きく寄与している。メンバーの確かな演奏力にも、きっと同様のことが言える。


    金井政人は理想が高く、そこへ向かう努力を怠らない。彼はある種のナルシストであり、それが彼の人生に完全にポジティブにフィードバックされている稀有なタイプだ。


    金井政人はいくつものカードを持っている。その中でも、彼がバンドに夢中になって以降最も念入りに育てているカードが、作家性という名のカードだ。作家性というキーワードはインタビューなどでも本人の口から触れられている。


    彼の高いモチベーションと豊かな文化資本と感の良さが、ヤンチャなイケメンのレベルでしかなかった作家性を、プロのソングライターという看板に耐えるところまで引き上げた。アーティストかくあるべし。金井政人は、自身の潜在的な作家性を肯定せず、生真面目に理想を追った上で努力する。読書については、次のように豪語している。


    "日課の読書は言葉を知らないバカでありたくない義務感にのみ由来している"(ブログ)


    最新アルバム『Fabula Fibula』でも作家性へのチャレンジが行われている。
    『Fabula Fibula』は、"収録されている全ての曲に街の物語とテーマがあり、アルバム1枚で一つの地図ができあがる"(リアルサウンド)というコンセプトを持ったアルバムだ。


    サージェント・ペパーズ以降、ロックは若者の遊びから離れ、芸術になっていく。その象徴がコンセプトアルバムという試みだ。金井にとって今のBIGMAMAは、芸術のステージにあると言える。


    『BLINKSTONEの真実を』では、フィクショナルな雰囲気がむんむんであることをまず指摘したい。
    美術館で撮影したMVは言わずもがな、冷たくヨーロピアンなメロディラインは、ポップミュージックとして落ち着いてしまうことを拒む強さがある。
    面白いのは、ハードロックなギターリフをガッツリ組み上げた上で、このような雰囲気に持っていくところだ。当然だが、作家性への拘りが第一に追求するのは歌詞ではない。オリジナリティだ。
    その点、チャレンジングなサウンドや編曲は金井にとってマスト事項となり、それは『BLINKSTONEの真実を』に象徴的である。


    歌詞にも一見の価値がある。


    "Don't look into her eyes
    dangerous It's a sweet trap
    決してその目を合わせてはいけない"

    "目と目が合えばその瞬間に
    氷のような冷たい接吻
    恋と地獄の底なし沼へ"

    "Medusa she is Medusa
    criminal she is criminal
    BLINKSTONEの真実を"


    BLINKはまばたきだ。見たものを石に変えてしまう、ギリシア神話のメデューサをモチーフにした物語だと分かる。
    気になるのは、"she is criminal"というセンテンスだ。メデューサがある種害悪のある存在であることは周知の事実である。つまり、彼女がcriminalであることを客観的に指摘する行為は、原理的には伝えるべき情報から省かれている。
    逆説的に解釈できるのは、メデューサ、あるいはメデューサに例えられている女性は、crinimalな存在ではないということである。そして彼女をcriminalと主張するのは、あくまで物語の語り手であり、それはひとつの主観でしか無いことを覚えておきたい。
    冒頭には次のような歌詞がある。


    "決してその目を合わせてはいけない"


    "その目"は、メデューサの目ではなく語り手の目を指す。
    ここにおいても、客観的にメデューサをフィーチャーするのであれば、「その目を見てはいけない」あるいは「その目に合わせてはいけない」と表現するほうがより自然な表現だと感じる。メデューサの目でなく、語り手の目が目的語となっていることに、客観ではなく主観に力点が置かれていることが象徴される。


    最後に、"BLINKSTONEの真実を"について。
    BLINK、まばたきをするのはやはり物語の語り手だ。
    そして"真実"があると説く。
    真実は物語が主観で描かれるときのみ脚光を浴びる。なぜなら主観から真実は隠れるから。
    逆に、客観とは神の視点であり、客観である限り真実は開かれている。


    まとめると、この曲の物語は、極度に語り手の主観に依存しており、それがひとつの仕掛けになっている。
    メデューサを一方的に、criminalな存在にしているのは、物語の語り手だ。

    そして真実はいつだって主観の外側に在る。この曲は、主観とは異なった真実を、間接的に読み取らせる構造になっている。ちなみにその真実がなんなのかは描かれていない。とはいえ、主観の記述を全面的に反転させることがヒントになるだろう。そこでボンヤリと見えるのは、メデューサという外的な危機ではなく、語り手自身の内的な退廃と、それがある状況に陥ったときの人間の宿命的なものであるという諦観、そして破滅的なロマンである。


    以上が、金井政人にとってどれだけ意識的なアプローチであったかは大した問題ではない。なぜなら、真実は金井政人の主観の外側にあるからだ。金井政人の作家性に誓って。
    『金井政人の作家性 メデューサの真実』 を詳しく ≫

NEW MUSIC最新のおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • サニー

    黒猫チェルシー

    美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。 コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。 その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンク

  • Nipponia Nippon

    SALU

    ナショナリズムってのはいつの時代も問題だと思うけれど、ここ最近はとくに悪い意味での存在感を増している。日本という国の素晴らしさを日本人に向けてアピールする人や、コンテンツ、メディアが増えた。そのどれもが、見ているこっちが恥ずかしいほど幼稚な内容にも関わらず、確かにそれに癒され、勇気づけられている人たちがいる。政治や経済での機能を除いて、国家というものがなぜ必要なのか、という問いに答えるのは難しい。

  • Connect

    田口 淳之介

    田口淳之介は精悍になった。 KAT-TUN全盛期の頃は、ワイルドなグループにおいて、ブラウンのロングヘアーがナチュラルにカールしている、甘い微笑みの優男という印象だった。 『Connect』のMVでダンスする田口淳之介と、公式ホームページのビジュアルイメージは統一されていて、ともにこれ以上さっぱりしようがないくらいにさっぱりした男になっている。 無駄なものが削ぎ落とされたかっこよ

  • BLINKSTONEの真実を

    BIGMAMA

    金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。 無理もない。この人は持てる者だ。 まず普通に顔が格好良い。 そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。 BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は

  • Swan

    [Alexandros]

    なんでこんなに顔がかっこいいのか、という疑問に対して誰も何も答えてくれないバンドナンバーワン。 曲もかっこいい。電子ビートとフェイザー?感のある揺らしたボーカルによる淡々とした始まりからして、新参者のパブリックイメージの外側から攻めてくる。この感触はどこから引っ張ってきたアイデアなのか。ボーカルの録音とミックスが良いだけなのか。 ドラマティックなサビで泣かせるまでに至らず、すぐAメロに

NEW REVIEW最新レビューから音楽をみつける

  • 美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。

    コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。

    その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンクバンドときた。曲も良い。演奏も良い。ルックスも良い。若い。大人のバックアップを看破できれば、むしろそのプロフェッショナルなプロダクションを愛せたかもしれないけど、それもできないから、私はただこのバンドを深追いするのを辞めた。私は信じられなかったのだ。そして許せなかったのだ。こんな若く美しい男性たちが、それに到底似合わない本物の音楽に、自然と出会い自然と惹かれたという事実が。


    このバンドの司令塔は澤竜次である。
    良いギタリストはフォームで分かるが、澤竜次もそのご多分に漏れない。右手のポジショニングが柔らかく美しい。良いギタリストはネックを遊ばせる。しなやかに傾くストラトキャスターを見てるだけでこちらの気分も良くなってくる。良いギタリストは、つまり澤竜次は、歪みの深さを選ばず、複弦でも単弦でもぱりっと弾ける。ブルージーかつ破壊的、時々トリッキーな音作りは黒猫チェルシーのイメージに大きく寄与している。『サニー』でもリフにソロにと彼の良さが存分に顕れている。澤竜次のルーツはハードロックとジミ・ヘンドリクスのようだ。なるほど納得である。パンクが入り口でここまでの演奏力にたどり着く想像はなかなかできない。バンドがINUやスターリンと似てきたのは、日本語の歌との融合の結果であり、それは、引いては、黒猫チェルシーが渡辺大知のバンドであるただそれだけの帰結だったのだ。

    とはいえ、元来このバンドが澤竜次のバンドであったことを考えれば、合点がいくことも多い。華美な衣装はジミ・ヘンドリクスのサイケデリアであり、ガレージパンクな音も、種を明かされればハードロックだ。華がありすぎる渡辺大知をイチ抜けし、澤をフロントマンに置けば、バンドのルックスだってハードロックオタク集団に見えなくもない。しかしながら、その趣味的な世界に閉じこもらないところまでが澤の判断であることは留意したい。

    『サニー』において、作曲クレジットはバンド名だが、曲を引っ張っているのはやはり澤のギターだ。この時期は、澤についていくカタチで、渡辺大知が音楽性を深化させていく様がバンドに良いバランスを持ち込んでいる。リフ主体のイレギュラーな曲展開に制約された歌が、メロウでないのに異様にポップであるのは、異物同士を手探りでドッキングさせたときのマジック以外のなにものでもない。
    このバンドのポップネスは、澤がひっぱる研究家肌の楽器隊と、ミーハーな天才肌である渡辺との怪しいバランスが成立させ、成長させてきた。『サニー』はその幸福な関係が最良のカタチで具現化した時期の、彼らの代表曲だと思う。


    ところで最近はすっかり渡辺のバンドなので、また様相が変わっている。と言った捉え方はかなり乱暴だが、澤が自身の趣味性をFAIRY BRENDAという別バンドで発揮しはじめたのも示唆的だ。黒猫チェルシーは、より歌ものにシフトし、バンド自体の物語を歌うようになった。ドッキングを繰り返した異物たちは、遂に整理整頓され、収まるべき所に収まったと言える。黒猫チェルシーが幸福でユニークだったのは、整理整頓されないままの有り様を作品にできる環境を手にしていたことにある。それゆえの歪さが、私のような者の変な誤解を産んだが、一方で産み落とされた作品は永遠だ。これらの作品たちは、過大でも過小でもない評価に時間をかけて辿り着くだろう。個人的にも、ギタリスト澤のFAIRY BRENDAとともに、黒猫チェルシーの新時代と新解釈に出会い続けるつもりである。
    『過大でも過小でもない評価に』 を詳しく ≫
  • ナショナリズムってのはいつの時代も問題だと思うけれど、ここ最近はとくに悪い意味での存在感を増している。日本という国の素晴らしさを日本人に向けてアピールする人や、コンテンツ、メディアが増えた。そのどれもが、見ているこっちが恥ずかしいほど幼稚な内容にも関わらず、確かにそれに癒され、勇気づけられている人たちがいる。政治や経済での機能を除いて、国家というものがなぜ必要なのか、という問いに答えるのは難しい。それはとても難しい。しかし、そこにひとつのヒントを与えてくれるのは、上述のように癒やしや勇気を必要としている人が事実存在しているということだ。彼らにとって、生まれついた国家、あるいは民族が肯定されることは、最も手っ取り早く、最も信頼の置ける己の肯定なのだ。

    SALUは、ヒップホップ界においてとりわけ明るく爽やかな曲調が印象的だ。中性的なルックスや、かわいらしい声も光っている。魂を揺さぶる男らしいメッセージとそれを裏付ける荒くれた生き方をある意味では運命づけられるヒップホップの世界で、クン付けで呼ばれることに何の違和感もないラッパーはSALUくらいではなかろうか。

    しかしながら、SALUが人畜無害で大衆的なアーティストでないことはその曲を聴けばわかる。そのラッパー魂が最も溢れ出たのがこの『Nipponia Nippon』だろう。

    この曲は通り一遍の反社会的な音楽とは一線を画している。リリックが巧みである背景には、次のようなSALUの冷静な現況認識がある。


    "たまに本当に心配だよ日本
    いいんだけど"


    "わかってる 本当に複雑だってこと"


    "やりたいことだけやりたいとかそれ本気?
    状況を変えようともがいてる若者を
    裏がどうのゆとりがどうのと叩こうと
    こういうことを言えばまた政治的
    宗教的とか言われてももういいからすぐにやろうよ"


    Noを突きつけるのではなく、"心配"をする。そして"いいんだけど"と捉え直し、あくまで自分の実存と日本の心配に繋がりはないことを確認する。この態度は上述ような、勇気や癒やしを国に求めてしまうナショナリストとは対極の知的で冷静な態度だ。そして"本当に複雑だってこと"をしっかりと"わかってる"。威勢良く格好をつけて毒を吐いているんじゃない。それがSALUだ。

    他方で、"やりたいことだけやりたい"という一見ラジカルで本質的な態度にも、疑いの目を向ける。この問いかけはリスキーだ。なぜなら、"政治的 宗教的"と言われてしまうから。事実そういう目的で個人主義から全体主義へ煽動するアジテーターも存在する。SALUはそういうこともよく分かっている。

    こうしてリリックを見て分かるように、複数の立場、複数のイデオロギーを横断した上で、SALUの反社会的なメッセージは紡がれている。

    今敢えて日本について歌うことは、それ自体も非常にリスキーである。安易な応援歌と受け取られるリスクも、安易な社会批判と受け取られるリスクもある。軽やかな自由さがウリだったSALUにとってはアーティストとしてのイメージを損なうリスクもあった。それでもあらゆる立場をクールに見渡して、優しく、厳しく、"心配だよ"と心地良いラップにしたこの曲を私は真にラジカルで魅力的だと思う。


    最後にもう一つリリックを見てみよう。


    "俺には幸いこの声がある
    このラップがある"


    "俺には幸い
    会ったことのない同士がいる"


    "君には幸い俺がいる"


    ここで、SALUは"幸い"を歌っている。SALUが自己の実存の問題に揺さぶられず、冷静に社会を直視しラップにできる理由は、SALUには"幸い"があるからだ。

    ナショナリストは自国を肯定されることで、己の肯定を手に入れた。SALUを肯定するのは、"声"と"ラップ"と"同士"だ。そして私たちにはSALUがいるから、SALUのラップで己を肯定し"状況を変えようともがいて"みることができる。さすれば国には何も求めない強さを持ちながら、それでも国に働きかけ、国を変えることができるかもれない。
    『日本を心配するラップの心地良さ』 を詳しく ≫
  • 田口淳之介は精悍になった。

    KAT-TUN全盛期の頃は、ワイルドなグループにおいて、ブラウンのロングヘアーがナチュラルにカールしている、甘い微笑みの優男という印象だった。

    『Connect』のMVでダンスする田口淳之介と、公式ホームページのビジュアルイメージは統一されていて、ともにこれ以上さっぱりしようがないくらいにさっぱりした男になっている。

    無駄なものが削ぎ落とされたかっこよさ。それはとてもシンプルでサラッとしたものであるはずなのに、ジャニーズという枠で考えると逆にユニークだと感じてしまうのが不思議だ。

    KAT-TUNはアンチ・ジャニーズのグループだ。6人中3人がグループを脱退し、事務所を退社していることからそれは明らかである。事務所がそれを失敗と捉えているか、逆に戦略的に有効だと捉えているかはわからない。いずれにせよ、そこにアンチ・ジャニーズというひとつの価値観が存在していることは確からしい。

    さて、脱退した赤西仁と田中聖を見てみよう。二人に共通しているのはその反骨精神以外にもう一つある。それは海外志向だ。

    赤西は、KAT-TUN在籍時から語学留学を試みており、それは全米デビュー、全米主要都市ツアーとして結実している。
    田中は、INKTを結成した。英語詞や英語タイトルが積極的に使われており、活動初期はブラジルでのフェスに大々的に出演している。サウンドからも感じ取れるが、海外展開に成功しているONE OK ROCKの立ち位置をひとつのランドマークとしていると読んで、間違ってはいないだろう。

    それでは田口淳之介に海外志向はあるのだろうか。海外デビューの予定はリリースされていないが、実は公式ホームページのプロフィールにはすでに英訳が併記されている。そして『Connect』のスローでエレクトロで隙間を意識した、コンテンポラリーなダンスサウンドを聴いてみれば、海外のトレンドを強く意識していることは一目瞭然だ。音だけを聴く限り、新しいキャリアを築いた三名の中で、Jポップリスナーへの配慮が最も足りていないのが、実は田口淳之介である。もちろんこれは良い意味で、だ。

    赤西の『TEST DRIVE featuring JASON DERULO』では、キャッチーなメロディと共に、日本人に向けた海外のかっこよさが存分に描かれていた。MVの最後のシーンが象徴的だ。赤西は左ハンドルのオープンカーに乗り、アメリカのハイウェイを大都市に向かってドライブする。アメリカに進出した赤西仁のカッコよさ。日本人の私たちがそれを意識せざるを得ないように、『TEST DRIVE』のMVは制作されているのだ。

    他方、田口淳之介『Connect』のMVは、スケボー仲間とのコミュニティというモチーフが、ビルの屋上や街中の公園と共に全面に押し出されている。ローカルを大切にするというそのスタンスは、逆説的に、アメリカのストリートの音楽により近接できている。赤西と田口にはこのような興味深い対称性があったようだ。

    その対称性の考察は今後の課題ということにしよう。
    ひとまずは、アンチ・ジャニーズ三人衆の共通項は海外志向である、と結論付けることができる。

    そこからさらに見方を反転させ、日本に残された側のことを考えてみたい。
    国内志向文化としてのジャニーズ、という発想だ。
    国内志向と海外志向、言い換えれば、日本が一番と思う人と日本は遅れていると思う人。昨今、両者の溝はより深くなり、両者の主張はより先鋭化されている気がする。その水面下での分裂の非常に象徴的な表面化として、新世代のアイドルを代表し日本の芸能シーンを支えていくはずだったKAT-TUNの分裂劇を捉えると、一連の事象は一段と興味深い。少女漫画の王子様のようだった田口が徐々にシンプルに洗練されていった事実すらも、見落としてはいけない気がしてくる。

    以上を踏まえて、今後のKAT-TUN、赤西、田中、田口の動向は注目に値する。
    だれがどこで成功するのか。溝は深まるのか。あるいは、もしかしたら、再結成はあるのか。
    どのような結果になろうと、KAT-TUNはそのときまた、未来の日本人の生き方を反映してくれるかもしれない。
    『KAT-TUNアフターストーリー』 を詳しく ≫
  • 金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。
    無理もない。この人は持てる者だ。


    まず普通に顔が格好良い。
    そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。

    BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は、金井のこうした育ちの良さが大きく寄与している。メンバーの確かな演奏力にも、きっと同様のことが言える。


    金井政人は理想が高く、そこへ向かう努力を怠らない。彼はある種のナルシストであり、それが彼の人生に完全にポジティブにフィードバックされている稀有なタイプだ。


    金井政人はいくつものカードを持っている。その中でも、彼がバンドに夢中になって以降最も念入りに育てているカードが、作家性という名のカードだ。作家性というキーワードはインタビューなどでも本人の口から触れられている。


    彼の高いモチベーションと豊かな文化資本と感の良さが、ヤンチャなイケメンのレベルでしかなかった作家性を、プロのソングライターという看板に耐えるところまで引き上げた。アーティストかくあるべし。金井政人は、自身の潜在的な作家性を肯定せず、生真面目に理想を追った上で努力する。読書については、次のように豪語している。


    "日課の読書は言葉を知らないバカでありたくない義務感にのみ由来している"(ブログ)


    最新アルバム『Fabula Fibula』でも作家性へのチャレンジが行われている。
    『Fabula Fibula』は、"収録されている全ての曲に街の物語とテーマがあり、アルバム1枚で一つの地図ができあがる"(リアルサウンド)というコンセプトを持ったアルバムだ。


    サージェント・ペパーズ以降、ロックは若者の遊びから離れ、芸術になっていく。その象徴がコンセプトアルバムという試みだ。金井にとって今のBIGMAMAは、芸術のステージにあると言える。


    『BLINKSTONEの真実を』では、フィクショナルな雰囲気がむんむんであることをまず指摘したい。
    美術館で撮影したMVは言わずもがな、冷たくヨーロピアンなメロディラインは、ポップミュージックとして落ち着いてしまうことを拒む強さがある。
    面白いのは、ハードロックなギターリフをガッツリ組み上げた上で、このような雰囲気に持っていくところだ。当然だが、作家性への拘りが第一に追求するのは歌詞ではない。オリジナリティだ。
    その点、チャレンジングなサウンドや編曲は金井にとってマスト事項となり、それは『BLINKSTONEの真実を』に象徴的である。


    歌詞にも一見の価値がある。


    "Don't look into her eyes
    dangerous It's a sweet trap
    決してその目を合わせてはいけない"

    "目と目が合えばその瞬間に
    氷のような冷たい接吻
    恋と地獄の底なし沼へ"

    "Medusa she is Medusa
    criminal she is criminal
    BLINKSTONEの真実を"


    BLINKはまばたきだ。見たものを石に変えてしまう、ギリシア神話のメデューサをモチーフにした物語だと分かる。
    気になるのは、"she is criminal"というセンテンスだ。メデューサがある種害悪のある存在であることは周知の事実である。つまり、彼女がcriminalであることを客観的に指摘する行為は、原理的には伝えるべき情報から省かれている。
    逆説的に解釈できるのは、メデューサ、あるいはメデューサに例えられている女性は、crinimalな存在ではないということである。そして彼女をcriminalと主張するのは、あくまで物語の語り手であり、それはひとつの主観でしか無いことを覚えておきたい。
    冒頭には次のような歌詞がある。


    "決してその目を合わせてはいけない"


    "その目"は、メデューサの目ではなく語り手の目を指す。
    ここにおいても、客観的にメデューサをフィーチャーするのであれば、「その目を見てはいけない」あるいは「その目に合わせてはいけない」と表現するほうがより自然な表現だと感じる。メデューサの目でなく、語り手の目が目的語となっていることに、客観ではなく主観に力点が置かれていることが象徴される。


    最後に、"BLINKSTONEの真実を"について。
    BLINK、まばたきをするのはやはり物語の語り手だ。
    そして"真実"があると説く。
    真実は物語が主観で描かれるときのみ脚光を浴びる。なぜなら主観から真実は隠れるから。
    逆に、客観とは神の視点であり、客観である限り真実は開かれている。


    まとめると、この曲の物語は、極度に語り手の主観に依存しており、それがひとつの仕掛けになっている。
    メデューサを一方的に、criminalな存在にしているのは、物語の語り手だ。

    そして真実はいつだって主観の外側に在る。この曲は、主観とは異なった真実を、間接的に読み取らせる構造になっている。ちなみにその真実がなんなのかは描かれていない。とはいえ、主観の記述を全面的に反転させることがヒントになるだろう。そこでボンヤリと見えるのは、メデューサという外的な危機ではなく、語り手自身の内的な退廃と、それがある状況に陥ったときの人間の宿命的なものであるという諦観、そして破滅的なロマンである。


    以上が、金井政人にとってどれだけ意識的なアプローチであったかは大した問題ではない。なぜなら、真実は金井政人の主観の外側にあるからだ。金井政人の作家性に誓って。
    『金井政人の作家性 メデューサの真実』 を詳しく ≫
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  • RT @ryotamoriyama: 段取りから目を背けるってことは、目標から目を背けるってことだぜBOY的な話をした夜でした。 by @ZeroBeat_BOT

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