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RANDOM MUSICランダムおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • 夜空を全部

    sora tob sakana

    拝啓、オルタナティブ夏の夜。 東京の冬は寒いです。 2017年は特急列車のように過ぎ去ってゆきます。 星を見る間もなく、小さなiPhoneの画面上で繰り広げられる宇宙に私たちは喜怒哀楽を捧げるようになりました。夜空を全部束ねてみたら、いいねのひとつでも貰えるかもしれません。 あの頃とは何もかもが違いますね。しかし、それで良いのかもしれません。私たちはそのときどきに目の前を通

  • SUN

    星野 源

    オザケン?ホーンセクションを使いこなし、ロックのパッションでエンターテイメントに仕上げる塩顔の文化人。ケレン味への美学も共通点。しかし、そのキャリアは長く、芸風はあのオザケンよりも幅広いようだ。 するっと入ってくるポップスなのに、そのまますり抜けていかず残っている。ゴリゴリのベースや、隠し味のノイズ、ボトムの強いリズム、良い男声、もしかしたらアートなMVも一役買っているかもしれない。ちゃんと

  • サニー

    黒猫チェルシー

    美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。 コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。 その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンク

  • オーライオーライ

    呂布カルマ

    "小さい頃は 神様がいて   不思議に夢を かなえてくれた" "小さい頃は 神様がいて   毎日愛を 届けてくれた" (やさしさに包まれたなら) 荒井由実の歌った神様は小さい頃にだけ存在する。 夢をかなえ、愛を届ける神様だ。 荒井由実の歌った神様は何のために存在するのだろうか。それは私たちが、夢をかなえ、愛を届ける存在であることを、人生の始まりの子供時代に学ぶためだ。私たち

  • Good New Times

    Gotch

    バンドマンのソロを聴くのは好きだ。 その人が、バンドとソロ、公と私をどのように分断するのか。 その境目をどの地点に置くか。音なのか、歌詞なのか。仕事と趣味なのか。 一番好きなジャンルと、二番目に好きなジャンルなのか。 それまでのバンド作品では、プライベートな音楽を鳴らしていたのか。 そうではなかったのか。 ソロ作品をリリースするとたくさんのことが見えてくる。 『Good

  • 恋人ができたんだ

    My Hair is Bad

    若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。 大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。 では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。 メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。 私は、若者が書いたラブソ

  • あの娘のギターはタイムマシン

    円盤少女

    円盤少女の和田純次はめっちゃ良いメロディを書く。 ただただ良いメロディを書く。 それ以上でもそれ以下でもない。良いメロディを書く。 これ。きっとまだ世の中のほとんどの人は知らないと思うんだけど、私は声を大にして言いたい。この人の書くメロディは良い。 明るく切ない、日本の歌謡曲の正道を行く美しいメロディだ。 とてもベタで王道だ。 でも決して安易ではない。 あーあ。ってなりそ

RANDOM REVIEWランダムレビューから音楽をみつける

  • カオティックという言葉がある。
    その言葉の選ばれ方において、カオティックと、カオスは全く別物である。

    カオスは字義通り混沌の意味。
    ジャンルレスであったり、特にそれが無秩序な印象につながっていたりすると人は、カオスな曲だ、と表現する。
    他方、カオティックはむしろ秩序だ。
    具体的には、スクリーモ、あるいはスクリーモ系のエモ、ハードコア、メタルコア、ミクスチャーロックなどを主戦場とするバンド達の、様式的で完成度高くセットアップされた変拍子や展開、音のキャラクターを褒める際に使われる。

    そう。
    本格ミステリは様式美だ。と言った小説家がいたが、同じようにカオティックも様式美である。
    スクリームがあり、ノイジーなパートがあり、メロウなパートがある。
    自己の内面に向き合った退廃的、破滅的な世界観。そして変拍子に転調、と音楽理論や演奏力をフルに発揮する。


    『自意識不明』も上記の様式美を満たした、実力派のカオティックソングだ。
    ツインペダルとメロディアスかつノイジーなリフの怒涛のスピード感。
    歌詞に魂をこめた切迫感のあるパンキッシュなスクリーム。
    ギターがクリーントーンになるメロウなパートも美しい。
    こんなときこそドラムは突っ張って捻ったパターンを叩く。
    そして歌詞。言葉でメッセージを表現することへの強い拘り。
    カオティックであるということは実力派ということなのだ。
    完全無欠であること。それは負の意味でのカオスの対極にある。


    nervous light of sundayほど本格的ではないが、同じようにカオティックなハードコアバンドの七弦ギタリストを努めていた友人がいた。
    彼は東京の高校を中退し、たくさんのバイトを経験しながらバンドでのデビューを目指していた。
    私のように学校では良い子で通ってた人種からすると、悪い友達も多そうな彼は、いわゆる不良っぽいところがあったが、音楽に対してストイックに追求するその様子には、姿勢の違いをひしひしと感じた。
    単にがむしゃらに夢を追うのではなく、彼には技術、知識への貪欲な向上心があり、事実それを身につけていた。
    ハードコアだけでなく、本当に多様なジャンルの音楽を聴き、映画やアニメにも詳しく、ピアノも弾けたようだ。

    彼には、とび職から転身したと言われるバンド『FACT』のキャリアにグッとくるような一面があった。それこそが彼の本質だと思う。
    しかし、持ち前のヤンキー気質で音楽のインテリジェンスに迫るその生き様には、同じ音楽好きとして考えさせられるものがあった。

    nervous light of sundayは大田区の大森出身のようだ。
    件の友人も東京だった。

    実は、彼がその後どうなったのかはわからない。
    『自意識不明』のスピーディーで艶やかなギターリフや、練られた楽曲構成に唸るとき、私は彼のことを思い出す。
    そしてこのシーンの層の厚さに、新たなヒーローの誕生を想像する。
    『カオティックとインテリジェンス』 を詳しく ≫
  • フラジール。国産オルタナティブ歌謡ロックバンド。

    歌謡テイストを掲げるロックバンドは多い。むしろ、日本のロックの歴史はいかに歌謡曲に陥らないかという試みの中でつくられた、と言っても良いくらい歌謡テイストは日本のロックバンドが自ずと持ち得ているものである。歌謡曲は多くの日本人ロッカーにとって、ロックに目覚める前に耳に馴染んだ忘れたい過去であり、小さなコンプレックスだった。あるいは逃れられない宿命だった。ブルースの下地がなかったこの国は、その宿命との闘争を経て、ロックを獲得するに至るユニークな歴史をつくった。

    ニューミュージックと言われるムーブメントが、紅白歌合戦へのアンチテーゼを掲げる一方で、多分に歌謡曲の影響を受けていた。ビートルズやボブ・ディランに影響を受けたというアーティストが、英米文化圏で先達が築いた価値観とは真逆の日本の芸能界で、テレビ局で、活躍し続けた。

    やがてその矛盾に多くの後続が気づくことになる。
    彼らは次第に、歌謡・芸能文化へ迎合しないオルタナティブな音楽性や活動スタンスと、商業的成功を両立することを目指すようになる。

    その末裔のひとつに、邦楽ロック、ギターロックというジャンルがある。
    邦楽ロックというジャンルを語るときにロッキンオンジャパンという雑誌を無視することはできない。というのも私は、上述の矛盾を解消するために、あるいは、表面上は解消されたように見せるために最も貢献したのは、どのバンドでもなく他ならぬロッキンオンジャパンだと思っている。そしてその矛盾を解消する試みは未だに続いており、そして彼らは今最も苦しんでいる。

    分かる人はこれだけで分かると思う。ロッキンオンジャパンについてはまた別の機会で掘り下げるとして、ひとつピックアップしておきたいのが、矛盾解消にはいくつかの手法があり、ロッキンオンジャパンが試みたのはそのひとつであるということだ。そしてフラジールはまた別の手法を試みている。

    ロッキンオンジャパンの試みは要するに、そのバンドにオルタナティブな文脈を付与することである。その試みは、バンドが如何なる様相を呈していようとも関係ない。なぜなら雑誌の存在意義がオルタナティブであることであり、また長いテキストの読み応えが必要とされているからだ。ちなみにインタビューという手法はその際非常に便利だ。メンバーから語られるパーソナルなヒストリーは、本質的にパブリックな大衆へのオルタナティブだからである。

    閑話休題。上述の矛盾を解消するためのフラジールの試みは、オルタナティブであることを証明し続けるロッキンオンジャパン的なものではなく、私たちは歌謡曲が好きなんです、みんな歌謡曲好きだよね、という開き直りだ。

    さて、歌謡曲の再評価など、今の時代すでに当たり前だと指摘することもできるだろう。問題は、ロッキンオンジャパン誌上で歌謡曲が好きだと発言しカノン進行で甘いメロディのシングル曲を書く事が歌謡曲の再評価ではない、という点である。

    非常に個人的な定義をここで持ち出そう。それは、ロックにはアティチュードがあり、歌謡曲にはアティチュードがない、という定義だ。これは優劣の話ではない。楽曲の良し悪しにアティチュードは関係ない。

    アティチュードのない芸術は何を愛するか。それはB級であることである。
    『俺たちのサマーゲーム』を聴いて私が最初に思ったことは、サザンオールスターズが本当にやりたかったことはこういうことだったのではないか、というひとつの感慨である。それは感慨である。ロックの音と、歌謡曲の哀愁、お茶目なケレン味、そのミックスによる胸の高鳴り。『俺たちのサマーゲーム』には、サザンオールスターズの長い夢がひっそり実現されていたという不思議な結末感がある。あまりに安っぽく、それ故にファンキー。テロテロなギターソロ。すっとぼけたアンサンブル。

    『俺たちのサマーゲーム』は、歌謡曲の哀愁を特にフィーチャーするフラジールにしてはからっとしたナンバーだが、アティチュードから自由であるという意味で、真にB級である。

    私たちは成長することでアティチュードを手に入れていく。しかし、それは人生を支配しない。人生を支配するのは、食事やトイレや掃除や洗濯や睡眠や家族や友達や恋愛だ。それはアティチュードの及ばない欲望であり、生活だ。その重要度を取り違えると私たちはアティチュードの自家中毒に陥る。アティチュードは、思想、夢、目標、文学と言い換えても良いかもしれない。B級芸術、歌謡曲、フラジールは、アティチュードから自由である故にほんとうの意味での人生を切り取る。

    『俺達のサマーゲーム』の歌詞に象徴的な一節がある。


    "胸騒ぎ 渚に寝そべる loco girl
    case by case game"


    このゲームは、ケースバイケースなのだ。
    一方で、桑田佳祐は『TSUNAMI』で次のように歌った。


    "人は誰も愛求めて 闇に彷徨う運命
    そして風まかせ Oh,My Destiny"


    桑田佳祐が国民的ロックバンドとしてベタに、シリアスに大成功した背景には、恋を「運命 = Destiny」と歌ったことにあるのかもしれない。もしウシジマタクロヲのようにおちゃらけて、「ケースバイケース」と歌っていたら。

    B級歌謡ロックバンド、サザンオールスターズはもう一つの夢を叶えたかもしれない。
    『歌謡曲とロッキンオンとサザンの夢』 を詳しく ≫
  • いまどきこんな純度の高いなハードコアバンドがいたとは。


    シンプルなリフが良い。
    結局グッドメロディじゃないか、みたいな甘っちょろいところが無いのが良い。


    こんなバンドに対してあえて言いたいが、パンクロッカー労働組合はとても音楽的である。
    激しいだけの音楽ならいくらでも生まれうる世の中で、本当の激情はヤケクソの絶叫や衝動の雑な発散ではなく、ゾクゾクするリフや、それと丁寧に一体化したメロディにこそ宿るのだと思い出させてくれる曲。
    作曲も良いが演奏も良い。
    パンクだから下手でも良いなんてのは、何かの勘違いだったのだろう。
    気持ちは表現に宿る。であれば、表現力というやつは確かに必要なのだ。


    実情は分からないが、このパンクバンドは、日本のメロコア、ポップパンク、青春パンクを通過した形跡が見当たらない。少なくともその形跡が残っていない。
    なによりもそれがすごいと思う。
    一見、初期パンクやアングラパンク然としたバンドでも、入り口はモンパチだったみたいなバンドは沢山いる。
    カップリングやアルバムでハードなサウンドや反体制をブっても、リードシングルではZARDと同じコード進行じゃねえか、みたいなやつらだ。
    しかし、パンクロッカー労働組合は60~70年代の国内パンクのどぎつい感じこそが核になっており、決してそれが背伸びでも虚勢でもないことが一聴してわかる。

    INUやあぶらだこに影響を受けているのだろうか。
    プロレタリアートのグツグツと煮えた魂にバリバリのリアリティを感じる。
    とはいえ時代は違うのだ。混沌が煌めいた60年代はとっくに終わり、現代は、強い主張は何もかもが斜に構えた正論に封じられる10年代だ。
    この開き直り悟り社会で、その迷いの無さをどうやって、どこで育ててこれたのだろうか。
    絶滅危惧種を見た気分になってくる。
    しかし、それは決して時代錯誤なんかじゃないことが音楽を聴けば分かる。
    これが流行ったら日本も捨てたもんじゃない。


    彼らが拠点にしている高円寺にはまだこんな雰囲気があるのだとしたら、沿線に住んでいる私はすぐに引っ越したほうが良い。PVのクリエイティブや、デモ活動など含めて、気持ち良いほどブレがない。
    これが流行ったら日本も捨てたもんじゃない。
    ていうかオーバーグラウンドになるのは無理じゃないのか。
    すっごい好きだけど。

    あと、ネット上では普通にピースフルなのも面白い。ここだけ現代風。
    『絶滅危惧種を見た気分』 を詳しく ≫
  • 上質だ。これぞ真の音楽好きが真の音楽好きに自信をもってレコメンドできる最高に上質でソフィスティケートされたジャンル越境ポップロックミュージックだ。

    ベースが良い。
    超聴こえる。
    ベースを聴かせるバンドは大抵良いバンドだ。
    ドラムが良い。
    タムで刻み、金物をキーボードのように聴かせるバンドは大抵良いバンドだ。
    テクニカルなのに、編曲に嫌味がない。
    こういうのをズルいと言う。

    アートワークを見ろ。ホームページを見ろ。
    ハイセンスってのは信仰なんだ。

    考えてみたい。
    ceroの良さってなんだろうか。
    わかっている。言うまでもなくこのテキストスペースはそのために存在する。
    しかし、あらためて、音楽が良いってなんだろうか、と考えてしまいたくなる何かがceroにはある。

    相撲取りは強ければ横綱になれる。
    しかし、ポップミュージックの世界では、そうはいかない。
    つよさ以外に、かっこよさやかしこさやすばやさやぼうぎょやHPやMPが必要であり、その総合力が大衆の支持を決定づける。

    ルックスが良いとか、組手が斬新だとか、ブログが面白いとか、インタビューでの知的な振る舞いとか、炎上耐性があるとか、そんなことは相撲取りの収入には関係ない。
    しかしバンドマンの収入には関係してくるのだ。

    結論から言えば、ceroはそんな他のステータスを無視して、強さだけで横綱になってしまった珍しいバンドなのではないか、と考えている。


    強さとは、音だ。簡単に言えば、リズムとハーモニーの構築力と再現力だ。
    イデオロギーはない。ルックスもキャラクターも地味だ。キラキラした男の子たちでもない。メロディは突出しない。そんなceroが備えていたものは、難攻不落な演奏技術、構築技術、音の算術技術、気持ちよさに強振されたセンスだ。
    つまり、音楽的強さのみでceroは横綱の座を掴み取ったのだ。

    「ceroいいよ」
    偉い人も、新しい音楽を気にしてるただの友人たちも、揃いも揃ってそう言い始めた。
    正直な話、偉い人のすすめる音楽や、新しい音楽ばかり気にしてる人が選ぶ音楽に私はいつも辟易している。音楽は進歩するが、進歩させるものではない。ずっと昔からそこにあって、ずっと昔からすでに美しかったものだからだ。

    とはいえ、私もceroを聴いてみた。
    その結果がこれである。
    『気持ちよさに強振されたセンス』 を詳しく ≫

NEW MUSIC最新のおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • Turning Up

    嵐(ARASHI)

    嵐がインターネット (YouTube、Twitter、Facebook、Instagram、TikTok、Weibo) を解禁したことは2019年のJポップ最大のニュースだ。彼らがただのアイドルから一皮むけたのはもう十年くらい前だったと記憶している。斜に構えていることの多い私の大学の友人たち (男性) の間では、その頃同じようにチャートを席巻していたAKBグループやEXILE TRIBEと比較し

  • Ride My Car

    The ManRay

    ロックバンドがロックしかしない。それって結構珍しい。 The ManRayはそんなバンドだ。 だから安心して聴ける。 メロウにもオシャレにもギャグにもヤケクソにもならず、ひたすらロックが聴ける。 それはとても幸せで、とても稀有なことだったのだとThe ManRayを聴いて思った。 良い意味で、楽曲に楽器が奉仕していない。 ベースとドラムとギターが独立した距離感で立ち回り、そのための

  • RE-FAURÉ

    Jessica × Mizuha Nakagawa × Prefuse73

    クラシック音楽を聴きたい人はたくさんいると思う。 いや、大人なら誰もが一度は「聴こうとした」ことがあると思う。 クラシック音楽は、格好良い。 尊敬される、良質な趣味だ。 日常生活に、クラシック音楽がある。不思議なことにただそれだけで、その日から人生が豊かになってくれそうな気がしてくる。 果たして。 そのようにしてクラシック音楽に触手を伸ばした彼らはその後どうなったか。 Y

  • ニューゲームがはじまる

    水野智広

    幸せの絶頂にいるときに聴きたい音楽がある。悲しみのどん底にいるときに救ってくれる音楽がある。穏やかで安定した毎日だから愛聴できる音楽がある。水野智広の音楽はそのどれでもない。 ひとつキーワードを選ぶとしたら、「不安」だ。 水野智広の音楽は日常の不安を解毒する作用を持つ。どういうことだろうか。 それを明らかにするためにはまず、彼の楽曲に随所に見られるホラー要素について考えてみる必要がある。

  • 恋人ができたんだ

    My Hair is Bad

    若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。 大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。 では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。 メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。 私は、若者が書いたラブソ

  • ハイエース

    フラワーカンパニーズ

    フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、 "いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)" ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。 私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった

  • カガミヨカガミ

    トライアンパサンディ

    ヘビーでポップでオルタナティヴ。曲が良い。トライアンパサンディの楽曲は粒ぞろいだ。それもそのはず、ボーカルのG-YUNcoSANDYは、GOLLBETTYとしてトイズファクトリーから若くしてメジャーデビューしている。 トライアンパサンディは、巷によくある、かわいくて格好良いバンドではないようだ。『カガミヨカガミ』での出だしのビターな歌メロのリフレイン、主張しすぎないギターリフ、声へのエフェク

NEW REVIEW最新レビューから音楽をみつける

  • 嵐がインターネット (YouTube、Twitter、Facebook、Instagram、TikTok、Weibo) を解禁したことは2019年のJポップ最大のニュースだ。彼らがただのアイドルから一皮むけたのはもう十年くらい前だったと記憶している。斜に構えていることの多い私の大学の友人たち (男性) の間では、その頃同じようにチャートを席巻していたAKBグループやEXILE TRIBEと比較して、「逆に嵐は格好いい」「嵐はむしろアリ」「なんかハマった」などといった謎のポジティブオーラが醸成されていたことを覚えている。その空気は今も驚くほど変わらない。嵐はなぜかリスペクトされたのだ。

    今回の嵐のネットアクションでまず初めに目に付いたのは、SNSで発信されるメッセージに必ず英語が併記されていることだった。また、まるでそれがSNS解禁と「同格」のトピックであるかのように大々的に、「東アジア・東南アジアへのJET STORMツアー」と「北京公演」が告知されたことが、私にはひとつの象徴的な出来事に思えてならない。

    英語を併記することは一見すれば英語圏を射程に入れているように思えなくもない。しかしそれは正確な見立てだろうか。
    先進国 (米・欧・日・韓) のポップカルチャーを先進国の若者と対等に消費し、対等に熱狂する東アジア・東南アジア在住の若者が今急速に増加し大きな存在感を持ち始めていることにもっと着眼すべきだと私は考える。英語であるが、ターゲットはアジアなのだ。

    アジアの中流以上の若者は同水準の生活をする日本人よりも明らかに上手な英語を話す。先進国 (米・欧・日・韓) のポップカルチャーをバリバリ消費する彼らの背景には家庭の経済力がある。彼らは特権的な教育を受けているから英語を話すし、外国のポップカルチャーへの飢えを満たす武器として「英語でググる」現場力を習慣として養っている。
    嵐の公式Twitterが始動してから五つ目にTweetされた内容が興味深かった。


    僕たちは世界中のファンの皆さんが大好きです。 あなたがどこに住んでいるか知りたいです! 教えて下さい!
    We love all of our fans across the globe. We want to know where you are from! Let us know!
    #ARASHI #嵐


    このTweetに5万を越えるリプライがついている。そのリプライを辿るとほとんどが日本人ではない東アジア・東南アジア人による英語で書かれたTweetだった。台湾。中国。香港。フィリピン。インドネシア。マレーシア。シンガポール。韓国。日本人の「黄色い声」がもうそこでは「黄色い声」としての存在感を持っていなかった。
    『Turning Up』の歌詞を見てみると、


    世界中に放て
    Turning up with the J-pop!


    がサビの最後をキメる。
    MVでは日本のパスポートにスタンプを押して飛行機に乗り、世界へ飛び出してはじけるメンバー五人が描かれている。

    嵐はアジアを見て、インターネットに打って出た。日本国内に限れば秘密主義・閉鎖主義もブランディングになったが、世界から見ればただの時代遅れだ。彼らはそのうち台湾で流行している髪型にカットして、マレーシアで最先端の曲調を取り入れて、インドネシア語混じりの曲を歌うことになるかもしれない。
    今回の一斉解禁は一見すると積極攻勢のようだが、見方によっては「外圧」にやられた「開国」と言うこともできる。市場としての「外」を無視できなくなり、そのパワーで「内」の論理の破壊を迫られた形になるからだ。
    だがそれは希望的な開国であり希望的な破壊である。ガラパゴス化した、世界第二位の音楽市場を持つJポップが世界に放たれるときが来たのだ。
    『アジアの黄色い声がJポップを変える』 を詳しく ≫
  • ロックバンドがロックしかしない。それって結構珍しい。
    The ManRayはそんなバンドだ。
    だから安心して聴ける。
    メロウにもオシャレにもギャグにもヤケクソにもならず、ひたすらロックが聴ける。
    それはとても幸せで、とても稀有なことだったのだとThe ManRayを聴いて思った。

    良い意味で、楽曲に楽器が奉仕していない。
    ベースとドラムとギターが独立した距離感で立ち回り、そのための道筋を歌が引いている。
    The ManRayはきっと一曲への拘りは薄いのだと思う。
    まるで、世紀の大名曲なら、いくつか既に世に送り出してきたベテランバンドのように。
    その余裕が塩梅の良い編曲に繋がっている。
    Beatlesの『Drive My Car』を彷彿とさせる『Ride My Car』ではとくにそれが顕著だ。

    まず曲が短い。終わり方は崩れ落ちるようにあっさりだ。
    一番盛り上がるのはギターソロ。
    泣きのフックもない。
    BPMもゆっくりだ。
    粘っこいリズム。
    こんな小品。なかなかリード曲にできない。
    要するに一般人には結構レベル高い。

    彼らの楽曲に一貫するこの手の美意識は、何を原動力に成り立っているのだろうか。

    それは自らのバンドコンセプトへの徹底した信頼なのかもしれない。
    Profileには次のように書かれている。


    "荒々しく土臭いサウンドに気怠いなかに苦みを 効かせたヴォーカル。クールかつルードな佇まいで、時代に媚びないロック美学を熱く貫くリアル・ロックバンド!!"


    なるほど、まさしくその通りである。
    良いバンドには良いコンセプトがある。
    良いコンセプトとは、わかりやすいコンセプトだ。
    人のキャラクターと同様で、パッと見で理解しやすいと人は心の障壁を取り除く。
    たくさんの顔と趣味を持っている男が、ラーメンの食べ歩きが趣味です、と自己紹介するように、多様なジャンルの音楽制作に精通したクリエイターが、パワーコードのパンクロッカーとして生きていくことはありえるし、それはとてもクールなことなのだ。私はThe ManRayにはそれと似た佇まいを感じている。

    今後、あくまで友好的に見守りたい課題があるとすれば、The ManRayのコンセプトがあまりに、"時代に媚びないロック"にすぎるところかもしれない。おそらく、一般人には理解できなくても、多くの音楽好きにThe ManRayのセンスは愛されるだろう。全く別のジャンルからもリスペクトされ得る"媚びないロック"がそこにある。
    しかしロックバンドたるもの、時代に媚びずとも、時代が媚びてくるくらいのポピュラリティをどこかで獲得する可能性を秘めて欲しいものだと、私は思っている。
    安心して聴ける良質のロックアルバムを3枚くらい出した暁には、獲得したファンと自らのキャッチコピーを裏切るような動きをしてみては、と思っていたりする。
    『バンドコンセプトへの徹底した信頼』 を詳しく ≫
  • クラシック音楽を聴きたい人はたくさんいると思う。
    いや、大人なら誰もが一度は「聴こうとした」ことがあると思う。

    クラシック音楽は、格好良い。
    尊敬される、良質な趣味だ。
    日常生活に、クラシック音楽がある。不思議なことにただそれだけで、その日から人生が豊かになってくれそうな気がしてくる。

    果たして。
    そのようにしてクラシック音楽に触手を伸ばした彼らはその後どうなったか。

    YouTube、TSUTAYA、タワーレコード。
    ベートーヴェン、モーツァルト、ショパン。
    知っている名前をつかって、馴染みの場所でそれを探して、音源に辿り着く。きっと彼らは感動したはずだ。

    やっぱり、クラシック音楽は良い。

    自分はクラシック音楽を好きになれる。

    自分はクラシック音楽の良さを理解できる……。


    さて、さらにその後は、いかがだろうか。
    私の周りを見渡した限り、そして私自身を振り返った限りにおいて、ほんとうの意味でクラシック音楽を趣味として確立できている人は見当たらない。少しばかり詳しくなって、それきりだ。

    面白いことに、音楽それ自体にどれだけハマっていたかは問題にならない。私のように、創作側に片足を突っ込んで人生を棒に振った輩から、ポップスすら聴かない真っさらな状態でクラシックにチャレンジした人まで。みな同じようにして、クラシックに接近し、そして無かったことにしていった。


    さて、そんな問題に意識的にアプローチしただけでも、good umbrella recordのRE-CLASSIC STUDIESは値千金である。私たちはクラシック音楽を聴きたい。クラシック音楽は私たちに聴かれたい。相思相愛にも関わらず引き裂かれた両者を繋ぐことを、このプロジェクトは目的としている。

    RE-FAURÉではまず、パッケージングの妙を聴いてほしい。
    全40分の音源に、Prefuse73(スコット・ヘレン)による7つのInterlude(幕間)が含まれている。ピアノと歌で再現された13のガブリエル・フォーレの歌曲の間に、適宜、Interludeが挟まるのだ。それがなんとも心強い安心感と、興味をそそるストーリーを与えてくれる。


    ベストアルバムではなくオリジナルアルバムを聴いてこそ、そのアーティストを知れる理由があるとすれば、そこにパッケージングがあるからだ。パッケージングにはアーティストの文脈が顕れる。文脈への理解と、文脈に身を委ねる安心感が、音楽への愛着を強化し私たちを音楽に没入させる。クラシック音楽の敷居が高くなってしまった背景には、クラシック音楽の持つ文脈が、他の音楽に比べて見えづらいことがある。だから、愛着が持続しないのだ。

    Prefuse73の功績だけではない。RE-CLASSIC STUDIESと銘打ったこと自体にも、強い文脈を宿らせる力がある。コンセプトを打ち出し、シリーズをつくったことで、クラシック音楽にトライするときの拠り所の無さが解消されていることに私は気づく。


    楽曲の再評価はそれこそ音源を聴くに任せておこう。
    RE-FAURÉでは、Jessicaのボーカルも良かった。良い意味で気安く、カジュアル。若々しく無垢な声。大作家を歌いこなそうという気負いをあまり感じさせず、だから古典に寄り添いすぎず、成熟しすぎず、瑞々しい現代の音楽になっている。中川瑞葉のピアノはとびきりメロディックだ。流麗だったり軽快だったりする前半から、聴き進むにつれ次第に陰影が強くなっていく後半への流れは、主張を増していくPrefuse73のInterludeとともに、中川瑞葉の熱量が大役を果たしている。

    それにしてもRE-CLASSIC STUDIESは、何もかもが易きに流れるいまの世の中にしては、随分と足腰の強さを感じるプロジェクトだ。WEBページには次のような惹句がある。


    "モーツァルトも、ドビュッシーも、フォーレも、(ビートルズやレディオヘッドのように)素晴らしいメロディーメーカーであり、「ソングライター」です。"WEBページより)


    まったく素晴らしい惹句だ。クラシックもロックもジャズも、どれが良いわけでもないのだ。分断された世界を、再解釈で繋ぐ、真の意味で実験的で批評的なこのプロジェクトを楽しみたい。
    『クラシック音楽は私たちに聴かれたい』 を詳しく ≫
  • 幸せの絶頂にいるときに聴きたい音楽がある。悲しみのどん底にいるときに救ってくれる音楽がある。穏やかで安定した毎日だから愛聴できる音楽がある。水野智広の音楽はそのどれでもない。

    ひとつキーワードを選ぶとしたら、「不安」だ。
    水野智広の音楽は日常の不安を解毒する作用を持つ。どういうことだろうか。
    それを明らかにするためにはまず、彼の楽曲に随所に見られるホラー要素について考えてみる必要がある。


    ホラー小説、ホラー映画。ホラーは人々に恐怖をあたえるジャンルだ。

    恐怖は原始的な感情だ。かつて世界は恐怖に満ちていた。自然災害、獣、暗闇、大海、炎、死、死者、未知数の共同体、敵対する部族、民族。生命の脅威に怯えるとき、人々は恐怖を感じる。

    病気や交通事故などを除いて、生命の脅威がほとんど取り払われたユートピアのような現代社会で、私たちは恐怖以外の些細なものに囚われて生きている。エンターテイメントとしてのホラーは、偉大なる恐怖という感情を利用して、恐怖以外の些細なものごとから私たちを解き放ち、カタルシスを与える力を持っている。

    恐怖以外の些細なものごと。それらは、不安という形で私たちに巣食っている。どう転んでも死にはしないものごとに囚われて、私たちは不安とともに生きている。

    水野智広の音楽が不安を解毒する理由は、現実世界に付きまとう即物的な不安とはまるで異質な、ヒヤッとした社会の裏側をつきつけてくることによる。彼の曲の中ではやすやすと人が死んでしまうが、それをシュールなギャグだと笑い飛ばしてしまうのはちがう。彼の曲には、そうやって笑い飛ばしてしまう自分自身を冷ややかに見ている視線が存在する。
    見えている世界が、一瞬だけネガを反転させて、やがてもとに戻る。戻ってきたときに私たちにはネガの残像が強く焼き付いている。その残像で、目の前に在る当たり前の世界が少しだけ嘘くさく見える。そこに、ホラー短編の読後のような非日常感と、カタルシスがある。そしてその余韻の中でふと気づく。私たちの日常生活に巣食っていた不安たちがそのときとても小さくなっていることに。なぜなら、ネガの反転した世界の恐ろしさが、よほど強烈な印象を残しているからだ。



    音楽的には、メロディ、リフ共に、ひとつの印象的なアイデアだけで一曲を貫き通すことが多く、少し物足りないくらいの小品に仕上げている。短いのに、いや短いからこそ、曲が終わった後に変な余韻を残している。そのあたりも短編小説の趣きだ。抽象度は高いが上述のようにばりばりコンセプチュアルな歌詞世界と曲調がリンクし、オリジナリティは抜群だ。

    音楽にドラマティックな感情の高ぶりを求める癖がついていると、それとは全く異質のベクトルに戸惑うかもしれない。しかし、日常に振り回されていることの小ささを感じてしまうほどの、もっとおおきなものへの畏怖を彼の曲は呼び覚ましてくれる。それは図らずしも、古来からあらゆる芸術の根幹に必要とされてきたものである。
    『反転したネガの残像』 を詳しく ≫
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