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  • BLINKSTONEの真実を

    BIGMAMA

    金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。 無理もない。この人は持てる者だ。 まず普通に顔が格好良い。 そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。 BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は

  • Good New Times

    Gotch

    バンドマンのソロを聴くのは好きだ。 その人が、バンドとソロ、公と私をどのように分断するのか。 その境目をどの地点に置くか。音なのか、歌詞なのか。仕事と趣味なのか。 一番好きなジャンルと、二番目に好きなジャンルなのか。 それまでのバンド作品では、プライベートな音楽を鳴らしていたのか。 そうではなかったのか。 ソロ作品をリリースするとたくさんのことが見えてくる。 『Good

  • さよならスカイライン

    ラッキーオールドサン

    圧倒的に聴きやすいのに圧倒的に独自性に満ちている。 あなたが古き良き温かい時代に生まれずに、絶望ばかりのこんな時代に生きていることを恨んでいるのなら、 あるいは、 失われた青春時代の自分から、今の自分はどうしてここまでかけ離れてしまったのかと嘆いているのなら、 あなたが聴くべき音楽は、 あなたにとっての懐メロではなく、 ラッキーオールドサンだ。 ラッキ

  • Be Noble

    ぼくのりりっくのぼうよみ

    音楽業界という謎の機関による絶賛を除いて、「ぼくのりりっくのぼうよみ」が絶賛されているところを見たことがない。 いきなり口がわるく申し訳ないがぼくはそう思う。 ただ、ぼくにとって音楽業界という謎の機関は、芸能関係者という謎の関係者と同じくらい情報に通じているという認識なので、ぼくは絶大な信頼を置いている。 だから、ぼくは「ぼくのりりっくのぼうよみ」を全面的に信頼している。もしも「ぼく

  • 恋をしたのは

    aiko

    aikoはメロディとコードが面白い。 それはよく言われていることだ。 『恋をしたのは』はコンセプチュアルなロングトーンや、イレギュラーな展開を取り入れた曲だ。一度きりの大サビのために、aikoは確信犯的に楽曲をセーブしている。遊んでいるなあと思う。曲で。とても実験的な曲だが、それをポップスとして組み立てる接着剤になっているのは、変幻自在なコード感とそれに溶け込んだメロディだ。aikoのメロ

  • 猫とアレルギー

    きのこ帝国

    猫である。そしてきのこである。テレキャスである。 ある種の人間はそれだけで何かに気づく。 あ、これ好きなヤツだ。と。 中堅監督が駆け出しの頃、地味な俳優陣と低予算なロケでとったモノローグの多い邦画。 きのこ帝国の持つ叙情性と、それへの親近感を言葉にするとき私はそれを思い浮かべた。 『猫とアレルギー』は、理性的でしっとりとしたロックバラードだ。 Aメロからいい具合に抑揚がきいたメ

  • ソレデモシタイ

    平井 堅

    平井堅がただ顔の濃いだけのボーカリストでないことは、きっとそれなりに知られている。純粋なる歌唱技術はもちろんのこと、味わいという意味でのボーカルワークも、サウンドメイカーとしてのバリエーションも、そしてチャーミングなユーモアも、ファン以外にも広く認知され、リスペクトを込めてあたたかくその活動が受け入れられている。 平井堅のそういった多様な側面の中でも、彼の存在感を一際輝かせている要素が、性へ

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  • 拝啓、オルタナティブ夏の夜。


    東京の冬は寒いです。
    2017年は特急列車のように過ぎ去ってゆきます。
    星を見る間もなく、小さなiPhoneの画面上で繰り広げられる宇宙に私たちは喜怒哀楽を捧げるようになりました。夜空を全部束ねてみたら、いいねのひとつでも貰えるかもしれません。


    あの頃とは何もかもが違いますね。しかし、それで良いのかもしれません。私たちはそのときどきに目の前を通り過ぎるものを追いかけて一生を終えるのでしょう。
    大きくて長い自然のうねりや空を飛ぶ魚に目を留めたり、それに恐れおののいたり。そんなことができたのはインプットの少ない子どもだけの特権だったのでしょう。


    それでも考えてみたいです。
    あの頃に感じたあれは何だったのか。
    すっかり見かけることもなくなったいま、それはひっそりとどこかで冷凍保存されているものなのか。


    "街が寝息を立てるころに"

    "夜風にドキドキ高鳴る胸で"

    "どこかきっと違う世界に"


    違う世界の存在を信じていたあの頃こそが、いまの私にとっては違う世界のできごとの様です。
    街が寝息を立てるころは、明日に備えて、私も寝息を立てるようになりました。夜の畏れに怯え、夜風に胸を高鳴らせるようなことは、寒いこの冬ではなかなか困難です。未来はすべからく過去になります。その意味で私たちは、最良の過去を手に入れるために、未来に向かって歩いているのだとも言えます。


    硬質なギターの轟音が好きです。性急なリズムが好きです。澄んだ声が好きです。アメンボのように張り付いて飛び跳ねるピアノが好きです。流星のように身を削って流れる優しくないメロディが好きです。
    瞬間蒼い風が吹いて、あの頃というやつが私の身体に乗り移ります。古いSFアニメのようなノスタルジーが全身の血液を発火させます。後ろ向きな感傷だと思われるでしょうか。それはありがちな勘違いです。


    音楽が私たちの体感時間を拡張するとき、過去に伸びた射程と同じだけ、未来にも届いているのです。ブラックホールのそばに漸近するように、時間は引き伸ばされるのです。iPhoneの画面で、いまこの瞬間とだけ交信していた私の時間が、急に本来の姿を取り戻すのです。それはオルタナティブな体験です。音楽か、夏の夜くらいしか、その魔法は使えません。
    『拝啓、オルタナティブ夏の夜。』 を詳しく ≫
  • あいみょんは、影のある少年のような声をしている。あいみょんの最大の個性は、ハイパフォーマンスなこの声にある。尖った強いエゴや、その奥で守られている心の震えを、言葉を乗せずとも伝えてしまう蒼い声だ。

    アコースティックギターのストロークよりもスピーディーに畳み掛けるメロディは、声の次に独特だ。野狐禅の竹原ピストルに似ていると指摘されているが正しいと思う。フォークの流儀だ。声質も相まってすこぶる気迫がある。聴き流せない怖さがある。アコギ弾き語りというと、一発目でピースフルで爽やかだという偏見を持たれるものだ。戦犯はゆずでも、YUIでも、miwaでも、街中のストリートミュージシャンでも良い。何れにせよあいみょんは、まず第一にそういうものに妥協せず抗っていこうというイノセントなパンクスピリットを感じる。

    歌詞だ。声とメロディはあいみょんの武器だが、あいみょんを表現へと駆り立てる原動力になると同時に、最大のアイデンティティとして機能しているのはやはり歌詞である。

    メジャーデビューシングル『生きていたんだよな』は、曲名からしておっかない。放り投げた語尾が乱暴な男のようだ。歌詞のストーリーはこうだ。



    飛び降りて亡くなった女子高生がいる。そのニュースを消費するネット、テレビ、大人たち。女子高生に共感する自分は泣いている。やりきれない思いを抱きながら一日が暮れていく......。



    正しい十代のうた。ふと浮かんだ言葉はそれだった。ヘビーな単語も並んでいるので、詳細は聴いてみてほしい。リアリズムで尚且つフィクショナルな世界観は、彼女の口紅の色のように強く濃く主張されている。この曲に結論はない。生きていたんだよなという事実とそうではなくなってしまったという事実に主体は混乱させられたままだ。それは作詞家に必要とされる真摯な姿勢である。主語を使用していないために客観性が保たれ、より冷徹でハードな批評性が宿っている。

    『生きていたんだよな』には憤りがある。歌に宿るメッセージや社会性は、憤りから生まれるものなのか。と、この曲を聴いて腑に落ちた自分がいる。憤りは歳をとれば失われる。失われなければならないのだ。社会で人と繋がって生きていくためには。

    だからこれは正しい十代のうただ。いつか手放さなければならない憤りだが、その本質はエネルギーだ。それを燃やすことで私たちはまた次のティーンネイジャーになにかを繋いでいく。
    『正しい十代のうた』 を詳しく ≫
  • フラジール。国産オルタナティブ歌謡ロックバンド。

    歌謡テイストを掲げるロックバンドは多い。むしろ、日本のロックの歴史はいかに歌謡曲に陥らないかという試みの中でつくられた、と言っても良いくらい歌謡テイストは日本のロックバンドが自ずと持ち得ているものである。歌謡曲は多くの日本人ロッカーにとって、ロックに目覚める前に耳に馴染んだ忘れたい過去であり、小さなコンプレックスだった。あるいは逃れられない宿命だった。ブルースの下地がなかったこの国は、その宿命との闘争を経て、ロックを獲得するに至るユニークな歴史をつくった。

    ニューミュージックと言われるムーブメントが、紅白歌合戦へのアンチテーゼを掲げる一方で、多分に歌謡曲の影響を受けていた。ビートルズやボブ・ディランに影響を受けたというアーティストが、英米文化圏で先達が築いた価値観とは真逆の日本の芸能界で、テレビ局で、活躍し続けた。

    やがてその矛盾に多くの後続が気づくことになる。
    彼らは次第に、歌謡・芸能文化へ迎合しないオルタナティブな音楽性や活動スタンスと、商業的成功を両立することを目指すようになる。

    その末裔のひとつに、邦楽ロック、ギターロックというジャンルがある。
    邦楽ロックというジャンルを語るときにロッキンオンジャパンという雑誌を無視することはできない。というのも私は、上述の矛盾を解消するために、あるいは、表面上は解消されたように見せるために最も貢献したのは、どのバンドでもなく他ならぬロッキンオンジャパンだと思っている。そしてその矛盾を解消する試みは未だに続いており、そして彼らは今最も苦しんでいる。

    分かる人はこれだけで分かると思う。ロッキンオンジャパンについてはまた別の機会で掘り下げるとして、ひとつピックアップしておきたいのが、矛盾解消にはいくつかの手法があり、ロッキンオンジャパンが試みたのはそのひとつであるということだ。そしてフラジールはまた別の手法を試みている。

    ロッキンオンジャパンの試みは要するに、そのバンドにオルタナティブな文脈を付与することである。その試みは、バンドが如何なる様相を呈していようとも関係ない。なぜなら雑誌の存在意義がオルタナティブであることであり、また長いテキストの読み応えが必要とされているからだ。ちなみにインタビューという手法はその際非常に便利だ。メンバーから語られるパーソナルなヒストリーは、本質的にパブリックな大衆へのオルタナティブだからである。

    閑話休題。上述の矛盾を解消するためのフラジールの試みは、オルタナティブであることを証明し続けるロッキンオンジャパン的なものではなく、私たちは歌謡曲が好きなんです、みんな歌謡曲好きだよね、という開き直りだ。

    さて、歌謡曲の再評価など、今の時代すでに当たり前だと指摘することもできるだろう。問題は、ロッキンオンジャパン誌上で歌謡曲が好きだと発言しカノン進行で甘いメロディのシングル曲を書く事が歌謡曲の再評価ではない、という点である。

    非常に個人的な定義をここで持ち出そう。それは、ロックにはアティチュードがあり、歌謡曲にはアティチュードがない、という定義だ。これは優劣の話ではない。楽曲の良し悪しにアティチュードは関係ない。

    アティチュードのない芸術は何を愛するか。それはB級であることである。
    『俺たちのサマーゲーム』を聴いて私が最初に思ったことは、サザンオールスターズが本当にやりたかったことはこういうことだったのではないか、というひとつの感慨である。それは感慨である。ロックの音と、歌謡曲の哀愁、お茶目なケレン味、そのミックスによる胸の高鳴り。『俺たちのサマーゲーム』には、サザンオールスターズの長い夢がひっそり実現されていたという不思議な結末感がある。あまりに安っぽく、それ故にファンキー。テロテロなギターソロ。すっとぼけたアンサンブル。

    『俺たちのサマーゲーム』は、歌謡曲の哀愁を特にフィーチャーするフラジールにしてはからっとしたナンバーだが、アティチュードから自由であるという意味で、真にB級である。

    私たちは成長することでアティチュードを手に入れていく。しかし、それは人生を支配しない。人生を支配するのは、食事やトイレや掃除や洗濯や睡眠や家族や友達や恋愛だ。それはアティチュードの及ばない欲望であり、生活だ。その重要度を取り違えると私たちはアティチュードの自家中毒に陥る。アティチュードは、思想、夢、目標、文学と言い換えても良いかもしれない。B級芸術、歌謡曲、フラジールは、アティチュードから自由である故にほんとうの意味での人生を切り取る。

    『俺達のサマーゲーム』の歌詞に象徴的な一節がある。


    "胸騒ぎ 渚に寝そべる loco girl
    case by case game"


    このゲームは、ケースバイケースなのだ。
    一方で、桑田佳祐は『TSUNAMI』で次のように歌った。


    "人は誰も愛求めて 闇に彷徨う運命
    そして風まかせ Oh,My Destiny"


    桑田佳祐が国民的ロックバンドとしてベタに、シリアスに大成功した背景には、恋を「運命 = Destiny」と歌ったことにあるのかもしれない。もしウシジマタクロヲのようにおちゃらけて、「ケースバイケース」と歌っていたら。

    B級歌謡ロックバンド、サザンオールスターズはもう一つの夢を叶えたかもしれない。
    『歌謡曲とロッキンオンとサザンの夢』 を詳しく ≫
  • 「日本語ロック」という言葉がある。
    はっぴいえんどが開拓を進め、サザンオールスターズ、RCサクセション、ブルーハーツが各々の方法論で完成させたソレだ。

    その言葉はいまでは廃れ、代わりに若い音楽ファンに親しまれているのは「邦楽ロック」だ。

    日本でロックをやること。かつては、それ自体が事件であり挑戦だった。
    いまはどうか。幸福なことに日本でロックは可能であることが証明されたと思う。それが「邦楽ロック」というビッグワードに象徴されている。

    それは日本国内での話。
    世界的な視点で見ると状況は変わる。ブリティッシュロック、アメリカンロックのような世界共通の認知は、邦楽ロックにおいてはゼロに等しい。
    ひとえに言語の問題もある。
    しかし目を留めたいのは、世界中の誰から見てもブリティッシュロックが確かにイギリスっぽく、アメリカンロックが確かにアメリカっぽいという事実だ。邦楽ロックは日本っぽいだろうか。その日本っぽさは世界的にポピュラーな日本のイメージだろうか。本当の邦楽ロックというやつは、まだ長い眠りの中にあるのだと私は考えたい。

    「ASIAN KUNG-FU GENERATION」「人間椅子」はわざわざ日本でロックをやることに強い自覚を持っているアーティストだと思っている。「BABYMETAL」「和楽器バンド」はどのくらい意識的だったかわからないが結果的に強い自覚をいま持っているアーティストだ。

    簡単に言えば、世界の周縁としての日本、という自覚だ。
    アメリカ人がブリティッシュロックをやるとき、その音には「なぜ?あえてイギリス風なのか?」という問いへのアンサーが自然に表象されるものだ。逆も然り。それは自国のロックを他国のロックと相対して見れる視点に起因する。世界では当たり前にできていることだが、日本は島国だからか、それをとても苦手とする。
    「ASIAN KUNG-FU GENERATION」「人間椅子」「BABYMETAL」「和楽器バンド」はそれができる人たちだ。

    その中でもポピュラリティでは最も劣る人間椅子に、私はひときわ強烈な客観性を感じる。そこには日本でロックやることが本質的に縮小再生産であることへの恐れがある。クールな理解がある。私はそれこそが本当の邦楽ロックの開花に必要だと思っている。


    歌詞だけではない。人間椅子は国文学の世界観がしっかり音やルックスに連結している。和装で、国産のメロディを歌う。ノエル・ギャラガーはユニオンジャックのシェラトンを弾き、スティービー・レイ・ヴォーンはカウボーイハットをかぶる。そういうことだ。

    日本という国のアイデンティティは少し格好悪い。サムライ、ちょんまげ、アニメ、満員電車、村社会。少なくとも欧米的ロックのフィーリングに一度でも憧れた人が、あえて取り組もうとはしないテーマだ。しかし、それと向き合った人間椅子がひとつの完成形に到達していることを知るべきだ。「恐怖の大王」はテンポチェンジしてからのギターソロが異常に格好良くてぶったまげる。なぜぶったまげるって、私たちの知るいつもの洋楽ハードロックとなにか違う匂いが鼻先を掠めるからだ。そしてその違いとレガシーとも言えるハードロックサウンドは見事に溶け合っている。

    なにが違うのだろう。
    それは日本的哀愁ではないだろうか。先述の歌詞とメロディだけでなく、リズムの溜めやボーカルの発声にもそれは持ち寄られている。人間椅子はハードロックサウンドに文芸の世界観を乗せているのではない。日本的哀愁の世界観からロックが発露しているのだ。ロックは狂気の音楽だ。そして狂気は目的ではなく結果だ。出自は個人の心の奥底であり、そういう意味で国民性や文化に強く依存する。キング・クリムゾンの狂気の起源を日本人は当然持ち合わせていない。ヨーロッパに哀愁があるように、日本にも哀愁がある。その日本的哀愁の風景が突破されたときの狂気が、恐怖の大王のギターソロなのだ。

    人間椅子が実現しているのは、コンセプトロックと言えるかもしれない。日本人による日本人のコスプレ。まさにその屈折すらも日本独特の狂気と言える。日本でロックをやるのに、日本をコンセプトにするのは皮肉なことかもしれない。自然でいること自体が困難なら、徹底してその宿命を背負ったバンドこそがこの国のロックをつくってくれる。
    『日本人による日本人のコスプレ』 を詳しく ≫

NEW MUSIC最新のおすすめ楽曲から音楽をみつける

  • Turning Up

    嵐(ARASHI)

    嵐がインターネット (YouTube、Twitter、Facebook、Instagram、TikTok、Weibo) を解禁したことは2019年のJポップ最大のニュースだ。彼らがただのアイドルから一皮むけたのはもう十年くらい前だったと記憶している。斜に構えていることの多い私の大学の友人たち (男性) の間では、その頃同じようにチャートを席巻していたAKBグループやEXILE TRIBEと比較し

  • Ride My Car

    The ManRay

    ロックバンドがロックしかしない。それって結構珍しい。 The ManRayはそんなバンドだ。 だから安心して聴ける。 メロウにもオシャレにもギャグにもヤケクソにもならず、ひたすらロックが聴ける。 それはとても幸せで、とても稀有なことだったのだとThe ManRayを聴いて思った。 良い意味で、楽曲に楽器が奉仕していない。 ベースとドラムとギターが独立した距離感で立ち回り、そのための

  • RE-FAURÉ

    Jessica × Mizuha Nakagawa × Prefuse73

    クラシック音楽を聴きたい人はたくさんいると思う。 いや、大人なら誰もが一度は「聴こうとした」ことがあると思う。 クラシック音楽は、格好良い。 尊敬される、良質な趣味だ。 日常生活に、クラシック音楽がある。不思議なことにただそれだけで、その日から人生が豊かになってくれそうな気がしてくる。 果たして。 そのようにしてクラシック音楽に触手を伸ばした彼らはその後どうなったか。 Y

  • ニューゲームがはじまる

    水野智広

    幸せの絶頂にいるときに聴きたい音楽がある。悲しみのどん底にいるときに救ってくれる音楽がある。穏やかで安定した毎日だから愛聴できる音楽がある。水野智広の音楽はそのどれでもない。 ひとつキーワードを選ぶとしたら、「不安」だ。 水野智広の音楽は日常の不安を解毒する作用を持つ。どういうことだろうか。 それを明らかにするためにはまず、彼の楽曲に随所に見られるホラー要素について考えてみる必要がある。

  • 恋人ができたんだ

    My Hair is Bad

    若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。 大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。 では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。 メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。 私は、若者が書いたラブソ

  • ハイエース

    フラワーカンパニーズ

    フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、 "いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)" ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。 私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった

  • カガミヨカガミ

    トライアンパサンディ

    ヘビーでポップでオルタナティヴ。曲が良い。トライアンパサンディの楽曲は粒ぞろいだ。それもそのはず、ボーカルのG-YUNcoSANDYは、GOLLBETTYとしてトイズファクトリーから若くしてメジャーデビューしている。 トライアンパサンディは、巷によくある、かわいくて格好良いバンドではないようだ。『カガミヨカガミ』での出だしのビターな歌メロのリフレイン、主張しすぎないギターリフ、声へのエフェク

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  • 嵐がインターネット (YouTube、Twitter、Facebook、Instagram、TikTok、Weibo) を解禁したことは2019年のJポップ最大のニュースだ。彼らがただのアイドルから一皮むけたのはもう十年くらい前だったと記憶している。斜に構えていることの多い私の大学の友人たち (男性) の間では、その頃同じようにチャートを席巻していたAKBグループやEXILE TRIBEと比較して、「逆に嵐は格好いい」「嵐はむしろアリ」「なんかハマった」などといった謎のポジティブオーラが醸成されていたことを覚えている。その空気は今も驚くほど変わらない。嵐はなぜかリスペクトされたのだ。

    今回の嵐のネットアクションでまず初めに目に付いたのは、SNSで発信されるメッセージに必ず英語が併記されていることだった。また、まるでそれがSNS解禁と「同格」のトピックであるかのように大々的に、「東アジア・東南アジアへのJET STORMツアー」と「北京公演」が告知されたことが、私にはひとつの象徴的な出来事に思えてならない。

    英語を併記することは一見すれば英語圏を射程に入れているように思えなくもない。しかしそれは正確な見立てだろうか。
    先進国 (米・欧・日・韓) のポップカルチャーを先進国の若者と対等に消費し、対等に熱狂する東アジア・東南アジア在住の若者が今急速に増加し大きな存在感を持ち始めていることにもっと着眼すべきだと私は考える。英語であるが、ターゲットはアジアなのだ。

    アジアの中流以上の若者は同水準の生活をする日本人よりも明らかに上手な英語を話す。先進国 (米・欧・日・韓) のポップカルチャーをバリバリ消費する彼らの背景には家庭の経済力がある。彼らは特権的な教育を受けているから英語を話すし、外国のポップカルチャーへの飢えを満たす武器として「英語でググる」現場力を習慣として養っている。
    嵐の公式Twitterが始動してから五つ目にTweetされた内容が興味深かった。


    僕たちは世界中のファンの皆さんが大好きです。 あなたがどこに住んでいるか知りたいです! 教えて下さい!
    We love all of our fans across the globe. We want to know where you are from! Let us know!
    #ARASHI #嵐


    このTweetに5万を越えるリプライがついている。そのリプライを辿るとほとんどが日本人ではない東アジア・東南アジア人による英語で書かれたTweetだった。台湾。中国。香港。フィリピン。インドネシア。マレーシア。シンガポール。韓国。日本人の「黄色い声」がもうそこでは「黄色い声」としての存在感を持っていなかった。
    『Turning Up』の歌詞を見てみると、


    世界中に放て
    Turning up with the J-pop!


    がサビの最後をキメる。
    MVでは日本のパスポートにスタンプを押して飛行機に乗り、世界へ飛び出してはじけるメンバー五人が描かれている。

    嵐はアジアを見て、インターネットに打って出た。日本国内に限れば秘密主義・閉鎖主義もブランディングになったが、世界から見ればただの時代遅れだ。彼らはそのうち台湾で流行している髪型にカットして、マレーシアで最先端の曲調を取り入れて、インドネシア語混じりの曲を歌うことになるかもしれない。
    今回の一斉解禁は一見すると積極攻勢のようだが、見方によっては「外圧」にやられた「開国」と言うこともできる。市場としての「外」を無視できなくなり、そのパワーで「内」の論理の破壊を迫られた形になるからだ。
    だがそれは希望的な開国であり希望的な破壊である。ガラパゴス化した、世界第二位の音楽市場を持つJポップが世界に放たれるときが来たのだ。
    『アジアの黄色い声がJポップを変える』 を詳しく ≫
  • ロックバンドがロックしかしない。それって結構珍しい。
    The ManRayはそんなバンドだ。
    だから安心して聴ける。
    メロウにもオシャレにもギャグにもヤケクソにもならず、ひたすらロックが聴ける。
    それはとても幸せで、とても稀有なことだったのだとThe ManRayを聴いて思った。

    良い意味で、楽曲に楽器が奉仕していない。
    ベースとドラムとギターが独立した距離感で立ち回り、そのための道筋を歌が引いている。
    The ManRayはきっと一曲への拘りは薄いのだと思う。
    まるで、世紀の大名曲なら、いくつか既に世に送り出してきたベテランバンドのように。
    その余裕が塩梅の良い編曲に繋がっている。
    Beatlesの『Drive My Car』を彷彿とさせる『Ride My Car』ではとくにそれが顕著だ。

    まず曲が短い。終わり方は崩れ落ちるようにあっさりだ。
    一番盛り上がるのはギターソロ。
    泣きのフックもない。
    BPMもゆっくりだ。
    粘っこいリズム。
    こんな小品。なかなかリード曲にできない。
    要するに一般人には結構レベル高い。

    彼らの楽曲に一貫するこの手の美意識は、何を原動力に成り立っているのだろうか。

    それは自らのバンドコンセプトへの徹底した信頼なのかもしれない。
    Profileには次のように書かれている。


    "荒々しく土臭いサウンドに気怠いなかに苦みを 効かせたヴォーカル。クールかつルードな佇まいで、時代に媚びないロック美学を熱く貫くリアル・ロックバンド!!"


    なるほど、まさしくその通りである。
    良いバンドには良いコンセプトがある。
    良いコンセプトとは、わかりやすいコンセプトだ。
    人のキャラクターと同様で、パッと見で理解しやすいと人は心の障壁を取り除く。
    たくさんの顔と趣味を持っている男が、ラーメンの食べ歩きが趣味です、と自己紹介するように、多様なジャンルの音楽制作に精通したクリエイターが、パワーコードのパンクロッカーとして生きていくことはありえるし、それはとてもクールなことなのだ。私はThe ManRayにはそれと似た佇まいを感じている。

    今後、あくまで友好的に見守りたい課題があるとすれば、The ManRayのコンセプトがあまりに、"時代に媚びないロック"にすぎるところかもしれない。おそらく、一般人には理解できなくても、多くの音楽好きにThe ManRayのセンスは愛されるだろう。全く別のジャンルからもリスペクトされ得る"媚びないロック"がそこにある。
    しかしロックバンドたるもの、時代に媚びずとも、時代が媚びてくるくらいのポピュラリティをどこかで獲得する可能性を秘めて欲しいものだと、私は思っている。
    安心して聴ける良質のロックアルバムを3枚くらい出した暁には、獲得したファンと自らのキャッチコピーを裏切るような動きをしてみては、と思っていたりする。
    『バンドコンセプトへの徹底した信頼』 を詳しく ≫
  • クラシック音楽を聴きたい人はたくさんいると思う。
    いや、大人なら誰もが一度は「聴こうとした」ことがあると思う。

    クラシック音楽は、格好良い。
    尊敬される、良質な趣味だ。
    日常生活に、クラシック音楽がある。不思議なことにただそれだけで、その日から人生が豊かになってくれそうな気がしてくる。

    果たして。
    そのようにしてクラシック音楽に触手を伸ばした彼らはその後どうなったか。

    YouTube、TSUTAYA、タワーレコード。
    ベートーヴェン、モーツァルト、ショパン。
    知っている名前をつかって、馴染みの場所でそれを探して、音源に辿り着く。きっと彼らは感動したはずだ。

    やっぱり、クラシック音楽は良い。

    自分はクラシック音楽を好きになれる。

    自分はクラシック音楽の良さを理解できる……。


    さて、さらにその後は、いかがだろうか。
    私の周りを見渡した限り、そして私自身を振り返った限りにおいて、ほんとうの意味でクラシック音楽を趣味として確立できている人は見当たらない。少しばかり詳しくなって、それきりだ。

    面白いことに、音楽それ自体にどれだけハマっていたかは問題にならない。私のように、創作側に片足を突っ込んで人生を棒に振った輩から、ポップスすら聴かない真っさらな状態でクラシックにチャレンジした人まで。みな同じようにして、クラシックに接近し、そして無かったことにしていった。


    さて、そんな問題に意識的にアプローチしただけでも、good umbrella recordのRE-CLASSIC STUDIESは値千金である。私たちはクラシック音楽を聴きたい。クラシック音楽は私たちに聴かれたい。相思相愛にも関わらず引き裂かれた両者を繋ぐことを、このプロジェクトは目的としている。

    RE-FAURÉではまず、パッケージングの妙を聴いてほしい。
    全40分の音源に、Prefuse73(スコット・ヘレン)による7つのInterlude(幕間)が含まれている。ピアノと歌で再現された13のガブリエル・フォーレの歌曲の間に、適宜、Interludeが挟まるのだ。それがなんとも心強い安心感と、興味をそそるストーリーを与えてくれる。


    ベストアルバムではなくオリジナルアルバムを聴いてこそ、そのアーティストを知れる理由があるとすれば、そこにパッケージングがあるからだ。パッケージングにはアーティストの文脈が顕れる。文脈への理解と、文脈に身を委ねる安心感が、音楽への愛着を強化し私たちを音楽に没入させる。クラシック音楽の敷居が高くなってしまった背景には、クラシック音楽の持つ文脈が、他の音楽に比べて見えづらいことがある。だから、愛着が持続しないのだ。

    Prefuse73の功績だけではない。RE-CLASSIC STUDIESと銘打ったこと自体にも、強い文脈を宿らせる力がある。コンセプトを打ち出し、シリーズをつくったことで、クラシック音楽にトライするときの拠り所の無さが解消されていることに私は気づく。


    楽曲の再評価はそれこそ音源を聴くに任せておこう。
    RE-FAURÉでは、Jessicaのボーカルも良かった。良い意味で気安く、カジュアル。若々しく無垢な声。大作家を歌いこなそうという気負いをあまり感じさせず、だから古典に寄り添いすぎず、成熟しすぎず、瑞々しい現代の音楽になっている。中川瑞葉のピアノはとびきりメロディックだ。流麗だったり軽快だったりする前半から、聴き進むにつれ次第に陰影が強くなっていく後半への流れは、主張を増していくPrefuse73のInterludeとともに、中川瑞葉の熱量が大役を果たしている。

    それにしてもRE-CLASSIC STUDIESは、何もかもが易きに流れるいまの世の中にしては、随分と足腰の強さを感じるプロジェクトだ。WEBページには次のような惹句がある。


    "モーツァルトも、ドビュッシーも、フォーレも、(ビートルズやレディオヘッドのように)素晴らしいメロディーメーカーであり、「ソングライター」です。"WEBページより)


    まったく素晴らしい惹句だ。クラシックもロックもジャズも、どれが良いわけでもないのだ。分断された世界を、再解釈で繋ぐ、真の意味で実験的で批評的なこのプロジェクトを楽しみたい。
    『クラシック音楽は私たちに聴かれたい』 を詳しく ≫
  • 幸せの絶頂にいるときに聴きたい音楽がある。悲しみのどん底にいるときに救ってくれる音楽がある。穏やかで安定した毎日だから愛聴できる音楽がある。水野智広の音楽はそのどれでもない。

    ひとつキーワードを選ぶとしたら、「不安」だ。
    水野智広の音楽は日常の不安を解毒する作用を持つ。どういうことだろうか。
    それを明らかにするためにはまず、彼の楽曲に随所に見られるホラー要素について考えてみる必要がある。


    ホラー小説、ホラー映画。ホラーは人々に恐怖をあたえるジャンルだ。

    恐怖は原始的な感情だ。かつて世界は恐怖に満ちていた。自然災害、獣、暗闇、大海、炎、死、死者、未知数の共同体、敵対する部族、民族。生命の脅威に怯えるとき、人々は恐怖を感じる。

    病気や交通事故などを除いて、生命の脅威がほとんど取り払われたユートピアのような現代社会で、私たちは恐怖以外の些細なものに囚われて生きている。エンターテイメントとしてのホラーは、偉大なる恐怖という感情を利用して、恐怖以外の些細なものごとから私たちを解き放ち、カタルシスを与える力を持っている。

    恐怖以外の些細なものごと。それらは、不安という形で私たちに巣食っている。どう転んでも死にはしないものごとに囚われて、私たちは不安とともに生きている。

    水野智広の音楽が不安を解毒する理由は、現実世界に付きまとう即物的な不安とはまるで異質な、ヒヤッとした社会の裏側をつきつけてくることによる。彼の曲の中ではやすやすと人が死んでしまうが、それをシュールなギャグだと笑い飛ばしてしまうのはちがう。彼の曲には、そうやって笑い飛ばしてしまう自分自身を冷ややかに見ている視線が存在する。
    見えている世界が、一瞬だけネガを反転させて、やがてもとに戻る。戻ってきたときに私たちにはネガの残像が強く焼き付いている。その残像で、目の前に在る当たり前の世界が少しだけ嘘くさく見える。そこに、ホラー短編の読後のような非日常感と、カタルシスがある。そしてその余韻の中でふと気づく。私たちの日常生活に巣食っていた不安たちがそのときとても小さくなっていることに。なぜなら、ネガの反転した世界の恐ろしさが、よほど強烈な印象を残しているからだ。



    音楽的には、メロディ、リフ共に、ひとつの印象的なアイデアだけで一曲を貫き通すことが多く、少し物足りないくらいの小品に仕上げている。短いのに、いや短いからこそ、曲が終わった後に変な余韻を残している。そのあたりも短編小説の趣きだ。抽象度は高いが上述のようにばりばりコンセプチュアルな歌詞世界と曲調がリンクし、オリジナリティは抜群だ。

    音楽にドラマティックな感情の高ぶりを求める癖がついていると、それとは全く異質のベクトルに戸惑うかもしれない。しかし、日常に振り回されていることの小ささを感じてしまうほどの、もっとおおきなものへの畏怖を彼の曲は呼び覚ましてくれる。それは図らずしも、古来からあらゆる芸術の根幹に必要とされてきたものである。
    『反転したネガの残像』 を詳しく ≫
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