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金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。 無理もない。この人は持てる者だ。 まず普通に顔が格好良い。 そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。 BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は
フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、 "いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)" ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。 私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった
曽我部恵一は紛れもないミュージシャンズミュージシャンズだ。先輩後輩問わず他のバンドマンや評論家に、曽我部恵一という人間はあまりに讃えられている。愛されすぎて逆に胡散臭いくらいだ。 同業者に愛されるにはいくつか理由がある。人柄もそうだろう。しかしそれよりも鍵になるのは、同じプロであってもなかなかマネできない、マネしようとしない音楽をやっていることだ。 他のミュージシャンに出来なくて、曽我
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- 若手正統派ロックバンドの大本命としてここ数年認知されているが、その原型は言われるほど「正統派」では無かった気がする。百歩譲ってイケメンでないことは置いておくとしても、谷口鮪の声には独特のねちっこさがあったし、楽曲もポップではあるが日本人好みの泣きメロは比較的少なかった。古賀隼斗のギターはまあまあ主張が強かったし。2013年のサマソニを見た時点で、ロックバンドらしさは抜群だったが、大衆の心を掴むならもっと「楽曲の良さ」が引っ張っても良いのではと感じていた。『進化、あるいは正当な変化』 を詳しく ≫
『ランアンドラン』は、そんなカナブーンのいびつな甲殻がいつの間にか剥がれ落ちていたことを教えてくれる曲である。
声の粒立ちが良く綺麗。ギターはリバーブで綺麗。Bメロの器用な譜割りや、サビのロングトーンには、谷口鮪が作曲家として自身の曲を自在にコントールできるようになってきていることを感じる。
結果的に、正統派の惹句にビシリと答える、エバーグリーンな曲になっている。これが大衆への迎合などではなく、正当な進化、正当な変化であること証明するのはなかなか難しい(そしてロックバンドにとっての正当とはなんだろう?)。それは彼らの今後の制作からのみ、分かってくることなのかもしれない。
- Mr.Children、コブクロ。『良曲志向と女の子と区別の埋葬』 を詳しく ≫
わかる。わかるよ、清水依与吏。
back numberが先達から非常に強い影響を受けているのがわかる。
いや、影響という言い方は間違っているかもしれない。
それは、遺伝に近い。
ハッピーエンドは、ドラマティックなバラードである。
他のback numberのバラードと同じように。
日本人好みのメロディライン、切ない恋心の歌詞。
ストリングス but バンドサウンド。
そして、PVの女の子。
Jポップの発明、PVの女の子。
back numberはPVにすごい勢いで女の子が出てくる。
古くからJポップでは、ここぞという勝負曲のPVで女の子を出すのが通例だった。
しかし、back numberはほぼすべての曲で女の子を出してくる。
ここまでくると、確信犯なのだろう。
バドル漫画の序盤なのにいきなり最強の技を繰り出してるけど、ここで白けちゃ負けだ!って読者が付いてくる。
読者をそうさせる繊細な気概をちゃんと掴んでいるのだ。
それを毎週の連載で繰り出している。
神の一手も、何度も使ってしまえば、それはもうback numberの一手である。
慎重に手を付けることで効果的であれた禁じ手を、back numberが無尽蔵に繰り出せるのはなにも偶然じゃない。他バンドでは、5年に一度の勝負曲を、back numberは3ヶ月に一度出しているだけである。
では、なぜback numberはこう毎度毎度泣きどころで勝負できるのか。
先輩のMr.Childrenを振り返ってみてほしい。彼らは、肩の力抜けた曲や、尖った曲で、ときどき足場整えているじゃないか。骨のある音楽家としての。
思うに、back numberの強さは、足場を整えなくても全力を出せることになる。テイクバックが小さくても球速を出せる投手のようだ。それは現代の音楽業界が、自然発生的に生んだ最新型の作家性なのだと思う。
大衆音楽の歴史とは、区別とカウンターの歴史である。
ブルース、ロックンロール、フォーク、サイケデリック、ハードロック、ヒップホップ、パンク、ニューウェーブ、テクノ、オルタナティブ。
ジャンルとは、一世代上のジャンルへの、反省をもとにしたカウンターで生まれる。
そこには先行ジャンルへの、明確な区別がある。先行世代との区別が、ニュージェネレーションの足場になる。
ロックンロールの誕生から半世紀以上経過して、この時代のback numberを聴いて思うのは、今のリアルな音楽には、区別もカウンターも存在していないということである。だからback numberは足場を整えながら音楽活動をする必要なんてなかった。
それがback numberの無節操な良曲志向の源泉にある。
おそらく、大衆音楽の歴史は長く豊かになりすぎたのだろう。
新型への進化とは、旧型の埋葬である。
旧型を埋葬するためには、旧型を区別する必要があった。
そして、ある時から、私たちは旧型の埋葬を必要としなくなり、その進化の在り方を変えたのだと思う。
- 曽我部恵一は紛れもないミュージシャンズミュージシャンズだ。先輩後輩問わず他のバンドマンや評論家に、曽我部恵一という人間はあまりに讃えられている。愛されすぎて逆に胡散臭いくらいだ。『恥と洗練と同業者』 を詳しく ≫
同業者に愛されるにはいくつか理由がある。人柄もそうだろう。しかしそれよりも鍵になるのは、同じプロであってもなかなかマネできない、マネしようとしない音楽をやっていることだ。
他のミュージシャンに出来なくて、曽我部恵一にできる音楽ってなんだろうか。そのキーワードは、恥ずかしさ、だと私は思っている。
恥ずかしい音楽にはいくつかある。プライベートな歌詞だったり、不器用で必死な歌声であったり、古臭い曲調だったり、子供っぽいソフトな曲調だったり、粗削りな演奏だったり。
恥ずかしいことを人はやらない。恥ずかしいからだ。しかし、こと芸術となってくると、必ずしもそうは問屋がおろさなくなってくる。なぜなら、人間はひとの恥ずかしい一面というやつに心を動かされてしまう生き物だからだ。親友の打ち明け話。気になる人の普段は見せない表情。汗を流して働く人。体を張った芸人のコント。旅の恥はかき捨てと言うけれど、恥をかきたくなければ冒険をしなければ良い。人はなるべき恥をかかずに生きていく。しかし何かしらの表現を志し人の心を動かしたければ、表現のカッコよさを磨くだけでなく個々のできる範囲で、恥をかいていく必要がある。
プライベートな歌詞だったり、不器用で必死な歌声であったり、古臭い曲調だったり、子供っぽいソフトな曲調だったり、粗削りな演奏だったり。
曽我部恵一が讃えられるのは他のミュージシャンたちが、半ば反射的に隠してしまうこれらの恥を自然体のまま、聴ける音楽に昇華してしまうからだ。もちろんそれらを実現するには技術もいる。作曲、編曲、ボーカル、演奏で高度なバランス感覚を持ち、さじ加減を知る耳を持っている必要がある。とはいえ、生き様に裏付けられた彼の人間性がなにより、生身の恥ずかしさを、聴ける、ものとして存在させる。
曽我部恵一の顔が村上春樹に似ていると思うのは私だけだろうか。エッセイやインタビューを読むと、村上春樹は村上春樹の小説の主人公のような生き方を本当にしていることがわかる。曽我部恵一も曽我部恵一の楽曲の主人公のような生き方を本当にしているからこそ、恥と表現が美しく繋がっているのだと思う。
『セツナ』はいい曲過ぎる。アコギの鳴るミディアムでメロウな良曲は彼に多いが、それにしてもこの透明感は稀有だ。メロディは二パターンを機械的に繰り返す。シンプルな構成。コーラスでコンプがかったボーカルや淡々としたピアノも相まってドライな印象に拍車をかける。
"夕暮れの街切り取ってピンクの呪文かける魔女たちの季節"
しかし、言葉数の多い色気のあるメロディとちょっと"ピンク"でドキッとする歌詞にはむくむくとしたエネルギーが内包されていて、微熱のまま夢の中に誘うような強引さも備えた曲になっている。
タワーレコードのインストアライブでこの曲を演奏している映像を見た。ベースの田中貴と二人編成のサニーデイ・サービスで、バリバリに歪ませたストラトキャスターを抱えて曽我部恵一はこの曲を絶叫していた。スタジオ音源の『セツナ』の洗練に抗うようだった。違和感が無かったことは驚きではない。表現を変えても取り払えない、曽我部恵一の、聴ける、恥があるからこそだと思う。
MVのヒロインは廣田朋菜という方だそう。映像部隊が優秀なのだろう。彼らの映像コンテンツはいつも良い。だけど今回は特に良い。 - 古い家具のようなギターの音色でドリーミーなアルペジオを組み立てる。『ロックンロールは秋の空』 を詳しく ≫
最後まで厚くならない音像に、盛り上がりに欠ける空虚なメロディが滑っていく。
独特な音楽は多々あれど、その独特さのベクトルにおいて有識者が認知できないような角度で『めぐり逢えたら』を繰り出すおとぎ話は、損極まりない。
新しいジャンルとの融合や、時代のアーキテクチャの有効活用は本当のところオリジナルでもなんでもない。進んでいる時代のフィーリング、それを選び取る尖った感性。そんなものと縁のないおとぎ話が私は好きだ。
そして、そんなおとぎ話は損極まりない。
『めぐり逢えたら』。この曲の特徴のひとつは、何故別れ何故めぐり逢うのかという情報が抜け落ちているセカイ系的な歌詞だ。この曲が湿っぽくもならなければ温かくもならない理由は曲調だけでなく、その歌詞にある。似ている。透明感のあるエモーションだけが情景とともに燃え尽きる様がまさにセカイ系フィクションと似ている。
"さよならのむこう"
"泣き顔の先"
"別れを捧げる"
モチーフとされるのは、別れるという概念それ自体と、その先にある概念的で幸福な何かそれ自体だ。別れも、めぐり逢いもふたり以上いなければできないことなのに、MVで描かれるのは女の子のみであることも指摘しておきたい。語り手は黒子として画面外にフェードアウトしているのだ。社会的背景が抜け落ち、離別や出逢い、破滅という概念がドラマティックに美少女のロードムービーとして独り歩きするのがセカイ系のストーリーだとまとめるなら、まさにどストライクのセカイ系ロックである。
おとぎ話が損極まりない理由は、そのわかりづらさにある。何を言っているんだと思われるかもしれない。有馬和樹はポップで綺麗なメロディを書くじゃないかと。バンドはそれを最大限に引き立てる演奏ができるじゃないかと。牛尾健太の美形はかなり目立つじゃないかと。
おとぎ話のわかりづらさは、ポップでピースフルな長所にユニークでストレンジな別の長所が埋もれてしまっている構造にある。おとぎ話に気づかず通り過ぎる人は、『めぐり逢えたら』の奇妙なメロディ展開や音像のアイデアに驚かず、ただ優しいだけの曲と感じるはずだ。わかりやすいよね、と。
そして、おとぎ話が損極まりないもう一つの理由は、そのわかりやすさにある。『めぐり逢えたら』の歌詞がセカイ系的であることは先程指摘した。同じようにして曲のテーマが直球の恋であれば、有馬はやはりリアリティを捉えず、概念としての恋心を、言葉を変え、メロディを変え畳み掛ける曲を作る。『理由なき反抗』収録の『SMILE』を引用する。
"終わり無き今は 光に溢れて"
"季節を超えて 僕は君と旅にでるのさ"
"恋をした瞬間に 涙があふれる"
"広がる青空に 僕らのメロディが溶けてゆく"
先日ドナルド・トランプのVictory Speechを英語で読んだ。それがとてもわかりやすかった。英語が簡単なのだ。トランプ政権自体の是非は置いといて、その言葉のポップさは分析に値する。限りなく平易で概念的でいかようにも解釈できるビッグワードだが感情が高ぶる。有馬が作詞で狙っているポップネスもまさにそれだと思う。トランプがインテリの自尊心を満たさないように、おとぎ話もインテリの自尊心を満たさない。わかりやすいからだ。もちろん有馬もトランプもそんなインテリよりも一枚上手なのだが、それはまた別の話。
わかりやすさとわかりづらさのさじ加減で、バンドは過大評価されたり過小評価されたりする。おとぎ話の評価が過小かどうかは定かではないが、おとぎ話の持つ難解さと平易さが共にユニークなものであることをそれなりの数のコアを自認するロックファンが認知できていないのは間違いない。ここにはマーケティングの問題もあるかもしれないが、その点、希望もある。
人にとってなにがわかりやすく何がわかりづらいかは、時代によって変わっていく。バンドの定性的な音楽の魅力をそのままにして。女心は秋の空というように、ロックファンの関心も秋の空だ。大したものじゃない。深みのあるポップバンドの最王手として、おとぎ話がコロッとトップに躍り出るなんてことは、それこそトランプの当選ほどには番狂わせではないだろう。
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若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。 大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。 では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。 メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。 私は、若者が書いたラブソ
フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、 "いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)" ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。 私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった
金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。 無理もない。この人は持てる者だ。 まず普通に顔が格好良い。 そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。 BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は
曽我部恵一は紛れもないミュージシャンズミュージシャンズだ。先輩後輩問わず他のバンドマンや評論家に、曽我部恵一という人間はあまりに讃えられている。愛されすぎて逆に胡散臭いくらいだ。 同業者に愛されるにはいくつか理由がある。人柄もそうだろう。しかしそれよりも鍵になるのは、同じプロであってもなかなかマネできない、マネしようとしない音楽をやっていることだ。 他のミュージシャンに出来なくて、曽我
バンドマンのソロを聴くのは好きだ。 その人が、バンドとソロ、公と私をどのように分断するのか。 その境目をどの地点に置くか。音なのか、歌詞なのか。仕事と趣味なのか。 一番好きなジャンルと、二番目に好きなジャンルなのか。 それまでのバンド作品では、プライベートな音楽を鳴らしていたのか。 そうではなかったのか。 ソロ作品をリリースするとたくさんのことが見えてくる。 『Good
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- 若々しい。イマドキの若者感、イマドキの恋愛感をどストレートに感じ取れる曲だ。『SNS時代のラブソング』 を詳しく ≫
大衆文化は世相を反映する。とくに音楽はそうだ。
では、どんな大衆音楽が、世相を感じ取るのに向いている音楽なのだろうか。
メッセージ性のある社会派ロックだろうか。海外の最先端を捉えたヒップホップだろうか。インテリジェンスのあるシティポップだろうか。DIYなインディーパンクだろうか。
私は、若者が書いたラブソングだと思う。
恋愛は普遍的だ。
だからこそ、その切り取り方に時代が見え隠れする。
例えばSHISHAMOの『君と夏フェス』。夏フェスが社交の場として定着した今だからこそ歌になるラブソングだ。昔ならそれはビーチだったかもしれないし、映画館だったかもしれないし、ディスコだったかもしれない。
My Hair is Badの『恋人ができたんだ』は、男性目線の歌だ。
新しい恋人ができたことで、以前の恋人を思い出す歌。
いかにも女々しく、色恋が世界のすべてでいられる年頃の青臭さを感じる。
私自身が個人的に共感できるかと言えば、正直Noだ。
大人の男になってしまった青年はもう、過去の恋愛をこれほどまでにウェットに振り返れない。美化こそすれど。
過去に対してウェットになれるのは若者の特権だ。それは、過去を感傷の対象ではなく、情熱の対象として見ることができている証拠である。なぜそれができるかと言えば、若者はそもそも抱えている過去の絶対量が少なく(故に過去自体に神秘性があり)、その上過去といえども精々、二三年前程度のものだからだ。
『恋人ができたんだ』において同時代性を感じるために、もうひとつのポイントに着目する。別れた後の恋人、という概念の新しい解釈だ。
いまの若者の恋愛の主戦場は間違いなく、LINE、Twitter、Instagram、FaceBookなどのSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)である。SNSの本質はアーカイブ性と、公共性だ。結論から言えば、別れた恋人と連絡をとろうとしなくても、SNSを覗けば、元カレ・元カノのその後が見えてしまう。
SNSは恋愛に新しい観点を持ち込む。自分を振った元カレがまだ自分をフォローしているのを知った上で、あえて落ち込んで見せることもあるだろう。逆に、他の男なんていくらでもいることを見てほしくて、遊んでいることを匂わせた写真をいつも以上にアップロードするかもしれない。切り替えたことを知ってほしくて、アイコンを変えることもあるだろう。シェアした音楽を深読みしてしまうかもしれない。沈黙することすらひとつのメッセージになってしまう。
SNSは、別れた後の恋人たちをアーカイブし続けることで、恋愛に対して新しい角度でスポットライトを当ててしまった。『恋人ができたんだ』はこの時代に生まれた、そんな新しい恋愛の機微を切り取った、同時代性のあるラブソングである。
この歌が椎木知仁の実体験にもとづいているかどうかは分からない。いやおそらくそうではないだろう。なぜならあまりにリアルだからだ。
リアルで写実的な描写を持ち込んだ理由は、生活感を持ち込みたかったからだ。別れた恋人を想う歌、という平凡なテーマを、現代の若者の当たり前の生活感で描けば、それが新奇性のあるラブソングになる。椎木知仁はそんな風にして、平凡なテーマを新しいラブソングに仕上げるソングライターなのだと思う。 - フラカンといえば『深夜高速』。言葉の響きも格好良いし、夢、青春、音楽、自分のやりたいことを追求し、『深夜高速の系譜 回帰系ロック』 を詳しく ≫
"いやらしさも汚らしさも むきだしにして走っていく(ブルーハーツ)"
ことの決意・道程を描いた歌詞は、青春の渦中にいる若者にも青春を終えた中年にも刺さる普遍性を持っている。日本のロックのスタンダード・ナンバーに数えられる名曲だと思う。
私が『深夜高速』を知ったのは10年以上前だった。当時からこの曲には特別な存在感があったが、人気はその後も加速し、遂にはこの曲のみで構成されたトリビュートアルバムがリリースされるまでに至った。スターダムにのし上がったことはなくても、確固たる人気をキープしていたフラカンだが、ここにきて新しい波がきていた。そのピークはデビュー20年にして初の武道館ワンマン公演だ。
曲を聴く前から、『ハイエース』が『深夜高速』の系譜にあることはわかった。フラワーカンパニーズのメンバーはハイエースに乗って真昼の高速も深夜の高速も走り抜け、日本全国を旅したのだろう。ひとつの車にメンバーやスタッフが乗り、永遠とも言える、楽しく、退屈な時間を過ごしたのだろう。そんな自分たちのやってきたことを、振り返り、自嘲しながらも、間違っていなかったと、これからもそうしていくのだと、再確認する決意の歌だ。つまり『ハイエース』の主人公はフラワーカンパニーズだ。
正解。歌詞世界の面で、私の予想は一ミリもずれていなかった。いつから聴いてると思ってるんだ。楽曲面では二点、良い意味で裏切られた。鮮やかなテンポチェンジが大胆で格好良かったことと、竹安のぎこちない掛け声だ。
それにしても、この自分の物語を歌う『深夜高速』『ハイエース』の系譜。フラカンを解き明かす上で、もっとピックアップされるべきだと思う。この傾向は最近とくに色濃くなっている。『消えぞこない』も同じタイプだ。
これらの楽曲は、フラワーカンパニーズというバンドのキャラクターやストーリーを知っていることで真に響いてくる。歌っている鈴木圭介を見て、歌詞を書いたときの彼の思いを探し出す。長年のファンはそうやって歌とバンドを紡ぎ合わせて、より強固な唯一無二のリスニング体験を仕立てていく。どのバンドでも少なからずあることだが、フラワーカンパニーズの場合、その回帰的とも言えるストーリーテリングが彼らのロックの核でさえあると捉えて良いと私は思う。回帰系ロックとでも呼ぼうか。
こうなってくると、キャリアを積めば積むほど参照されるバンドの物語が強化され、新曲の重みが増していく。
近年は、"メンバーチェンジなし!活動休止なし!ヒット曲なし!"と堂々と謳い、なんとも情けないネーミングの自主レーベル、チキン・スキン・レコードを立ち上げている。とどまることを知らない自己参照だ。自虐でありながら、それを誇る。泥臭い自分たちを創作の源とする。近年の再評価は、この芸風と、積み重ねた実績がいよいよ噛み合ってきたことを感じさせるものだ。
ロックは落ちこぼれの音楽だ。"ヒット曲なし!"と叫んで尚武道館までリスナーがついてくるに至ったここからは、ある意味では本当のロックがはじまりつつあるのかもしれない。 - 美しい女の子は正義だが、美しい男の子も正義だ。『過大でも過小でもない評価に』 を詳しく ≫
コアな音楽性を気取るわりにいつだって洒脱な佇まいでいる彼らがあまり好きではなかったが、久しぶりに聴いてみればなんとも美しい若者たちだった。
その初期はどうも、出来杉君のようで気に入らなかった。ハタチにもならず映画デビューした渡辺大知。メンバー皆十代なのに、バンドの音楽性は、INUやスターリンに影響を受けたと言われている硬派なガレージパンクバンドときた。曲も良い。演奏も良い。ルックスも良い。若い。大人のバックアップを看破できれば、むしろそのプロフェッショナルなプロダクションを愛せたかもしれないけど、それもできないから、私はただこのバンドを深追いするのを辞めた。私は信じられなかったのだ。そして許せなかったのだ。こんな若く美しい男性たちが、それに到底似合わない本物の音楽に、自然と出会い自然と惹かれたという事実が。
このバンドの司令塔は澤竜次である。
良いギタリストはフォームで分かるが、澤竜次もそのご多分に漏れない。右手のポジショニングが柔らかく美しい。良いギタリストはネックを遊ばせる。しなやかに傾くストラトキャスターを見てるだけでこちらの気分も良くなってくる。良いギタリストは、つまり澤竜次は、歪みの深さを選ばず、複弦でも単弦でもぱりっと弾ける。ブルージーかつ破壊的、時々トリッキーな音作りは黒猫チェルシーのイメージに大きく寄与している。『サニー』でもリフにソロにと彼の良さが存分に顕れている。澤竜次のルーツはハードロックとジミ・ヘンドリクスのようだ。なるほど納得である。パンクが入り口でここまでの演奏力にたどり着く想像はなかなかできない。バンドがINUやスターリンと似てきたのは、日本語の歌との融合の結果であり、それは、引いては、黒猫チェルシーが渡辺大知のバンドであるただそれだけの帰結だったのだ。
とはいえ、元来このバンドが澤竜次のバンドであったことを考えれば、合点がいくことも多い。華美な衣装はジミ・ヘンドリクスのサイケデリアであり、ガレージパンクな音も、種を明かされればハードロックだ。華がありすぎる渡辺大知をイチ抜けし、澤をフロントマンに置けば、バンドのルックスだってハードロックオタク集団に見えなくもない。しかしながら、その趣味的な世界に閉じこもらないところまでが澤の判断であることは留意したい。
『サニー』において、作曲クレジットはバンド名だが、曲を引っ張っているのはやはり澤のギターだ。この時期は、澤についていくカタチで、渡辺大知が音楽性を深化させていく様がバンドに良いバランスを持ち込んでいる。リフ主体のイレギュラーな曲展開に制約された歌が、メロウでないのに異様にポップであるのは、異物同士を手探りでドッキングさせたときのマジック以外のなにものでもない。
このバンドのポップネスは、澤がひっぱる研究家肌の楽器隊と、ミーハーな天才肌である渡辺との怪しいバランスが成立させ、成長させてきた。『サニー』はその幸福な関係が最良のカタチで具現化した時期の、彼らの代表曲だと思う。
ところで最近はすっかり渡辺のバンドなので、また様相が変わっている。と言った捉え方はかなり乱暴だが、澤が自身の趣味性をFAIRY BRENDAという別バンドで発揮しはじめたのも示唆的だ。黒猫チェルシーは、より歌ものにシフトし、バンド自体の物語を歌うようになった。ドッキングを繰り返した異物たちは、遂に整理整頓され、収まるべき所に収まったと言える。黒猫チェルシーが幸福でユニークだったのは、整理整頓されないままの有り様を作品にできる環境を手にしていたことにある。それゆえの歪さが、私のような者の変な誤解を産んだが、一方で産み落とされた作品は永遠だ。これらの作品たちは、過大でも過小でもない評価に時間をかけて辿り着くだろう。個人的にも、ギタリスト澤のFAIRY BRENDAとともに、黒猫チェルシーの新時代と新解釈に出会い続けるつもりである。
- 金井政人は非常にモチベーションの高い人間である。そして理想の高い人間である。『金井政人の作家性 メデューサの真実』 を詳しく ≫
無理もない。この人は持てる者だ。
まず普通に顔が格好良い。
そして学がある。ポイントは最終学歴ではなく、付属高校から中央大学に進学していることだ。東京出身。私立の高校に進学できるだけの経済的余裕と、文化資本を備えた、いわゆる中流家庭の出身であると推察できる。
BIGMAMAの優美でクラシカルな世界観は、金井のこうした育ちの良さが大きく寄与している。メンバーの確かな演奏力にも、きっと同様のことが言える。
金井政人は理想が高く、そこへ向かう努力を怠らない。彼はある種のナルシストであり、それが彼の人生に完全にポジティブにフィードバックされている稀有なタイプだ。
金井政人はいくつものカードを持っている。その中でも、彼がバンドに夢中になって以降最も念入りに育てているカードが、作家性という名のカードだ。作家性というキーワードはインタビューなどでも本人の口から触れられている。
彼の高いモチベーションと豊かな文化資本と感の良さが、ヤンチャなイケメンのレベルでしかなかった作家性を、プロのソングライターという看板に耐えるところまで引き上げた。アーティストかくあるべし。金井政人は、自身の潜在的な作家性を肯定せず、生真面目に理想を追った上で努力する。読書については、次のように豪語している。
"日課の読書は言葉を知らないバカでありたくない義務感にのみ由来している"(ブログ)
最新アルバム『Fabula Fibula』でも作家性へのチャレンジが行われている。
『Fabula Fibula』は、"収録されている全ての曲に街の物語とテーマがあり、アルバム1枚で一つの地図ができあがる"(リアルサウンド)というコンセプトを持ったアルバムだ。
サージェント・ペパーズ以降、ロックは若者の遊びから離れ、芸術になっていく。その象徴がコンセプトアルバムという試みだ。金井にとって今のBIGMAMAは、芸術のステージにあると言える。
『BLINKSTONEの真実を』では、フィクショナルな雰囲気がむんむんであることをまず指摘したい。
美術館で撮影したMVは言わずもがな、冷たくヨーロピアンなメロディラインは、ポップミュージックとして落ち着いてしまうことを拒む強さがある。
面白いのは、ハードロックなギターリフをガッツリ組み上げた上で、このような雰囲気に持っていくところだ。当然だが、作家性への拘りが第一に追求するのは歌詞ではない。オリジナリティだ。
その点、チャレンジングなサウンドや編曲は金井にとってマスト事項となり、それは『BLINKSTONEの真実を』に象徴的である。
歌詞にも一見の価値がある。
"Don't look into her eyes
dangerous It's a sweet trap
決してその目を合わせてはいけない"
"目と目が合えばその瞬間に
氷のような冷たい接吻
恋と地獄の底なし沼へ"
"Medusa she is Medusa
criminal she is criminal
BLINKSTONEの真実を"
BLINKはまばたきだ。見たものを石に変えてしまう、ギリシア神話のメデューサをモチーフにした物語だと分かる。
気になるのは、"she is criminal"というセンテンスだ。メデューサがある種害悪のある存在であることは周知の事実である。つまり、彼女がcriminalであることを客観的に指摘する行為は、原理的には伝えるべき情報から省かれている。
逆説的に解釈できるのは、メデューサ、あるいはメデューサに例えられている女性は、crinimalな存在ではないということである。そして彼女をcriminalと主張するのは、あくまで物語の語り手であり、それはひとつの主観でしか無いことを覚えておきたい。
冒頭には次のような歌詞がある。
"決してその目を合わせてはいけない"
"その目"は、メデューサの目ではなく語り手の目を指す。
ここにおいても、客観的にメデューサをフィーチャーするのであれば、「その目を見てはいけない」あるいは「その目に合わせてはいけない」と表現するほうがより自然な表現だと感じる。メデューサの目でなく、語り手の目が目的語となっていることに、客観ではなく主観に力点が置かれていることが象徴される。
最後に、"BLINKSTONEの真実を"について。
BLINK、まばたきをするのはやはり物語の語り手だ。
そして"真実"があると説く。
真実は物語が主観で描かれるときのみ脚光を浴びる。なぜなら主観から真実は隠れるから。
逆に、客観とは神の視点であり、客観である限り真実は開かれている。
まとめると、この曲の物語は、極度に語り手の主観に依存しており、それがひとつの仕掛けになっている。
メデューサを一方的に、criminalな存在にしているのは、物語の語り手だ。
そして真実はいつだって主観の外側に在る。この曲は、主観とは異なった真実を、間接的に読み取らせる構造になっている。ちなみにその真実がなんなのかは描かれていない。とはいえ、主観の記述を全面的に反転させることがヒントになるだろう。そこでボンヤリと見えるのは、メデューサという外的な危機ではなく、語り手自身の内的な退廃と、それがある状況に陥ったときの人間の宿命的なものであるという諦観、そして破滅的なロマンである。
以上が、金井政人にとってどれだけ意識的なアプローチであったかは大した問題ではない。なぜなら、真実は金井政人の主観の外側にあるからだ。金井政人の作家性に誓って。
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